masato日記

ふだんのにっき

二日酔い対策にはペパリーゼが効くと聞いた。二本飲めばさらに効くらしい。一人でビール中瓶6本飲んでも大丈夫だったらしい。平時はジョッキ6杯で精一杯なのだという。とすれば、およそ倍近いキャパシティが得られるわけで、ペパリーゼの効力はあなどれない。コストは500円程度だ。ちなみに、上級モデルもあるが、ノーマルのペパリーゼでよいとのこと。

会社の忘年会だったので、多めに酒を飲むこともあるかと思い、聞いた話の通り二本を仕入れて摂取してみた。結構飲んだけど、意識がはっきりしていて、二日酔いする気配はない。

名駅、KITTE1階にある立ち呑み日本酒バーYATAにいってきた。
2杯のんで、丹沢山がとくにうまかった。
ステンレススチールのカウンターのある、清潔感のある店内だった。常連さんらしいスーツ姿のお客さんもいた。店員さんは21歳だった。

次に、名駅東口にある鶏料理推しの店にはいった。
唐揚げがとてもおいしかった。揚げたての唐揚げのおいしさを再確認した思いだ。

ご一緒させてもらった方がスモーカーだったので、ふと吸いたくなって2本いただいた。
たばこを吸うと、脳細胞が刺激されて、キマった感じになった。
日常的な喫煙者の方々はいちいち「キマった」などとは言わないだろう。
だが普段吸わない人が吸うと、そう言いたくなる。
酒がダウナー系でたばこがアッパー系で、刺激がちょっと多すぎた。ので、たばこはそれまでに。

名古屋駅周辺は、クリスマスの電飾の装いで、年末の雰囲気であった。
今年の電飾は、たぶんLEDなのだが、暖色系のあかりで個人的に好みな感じになっている。

もうすぐ年末なので、体調に気をつけて過ごしていきたい。

遅刻するほど寝過ごすと、なんだか気持ちよく寝れた感じになる。
9時に家を出たときの、外の陽差しが非日常的にきらきらしていた。
解放感。
これがもし、10時出勤で9時に出掛けただけであったなら、これほどの自由を感じることはなかっただろう。
ルールを破るのは快感というのはこういうことかな。

小学校は、田舎の県道ぞいの歩道を1キロほどいって、そこからたんぼ道を抜け、森をのぼっていった山の上にあった。
団地のこどもたちと一緒に歩いて通学していた。人口1万数千人の町で、山奥というほど山ではなかったが、当時はコンビニもほとんどなく、地元の商店があるだけの静かなまちだったと記憶している。ゲームばかりしている子供で、毎月読んでいるゲーム雑誌があった。その雑誌の発売日をいつも楽しみにしていた。その日まで、ゲームに没頭して毎日を送っていて、それはとても楽しかった。好きすぎて、朝5時に起きてゲームしていたこともある。ゲームができるのがうれしくて、うきうきしながら早起きしていた。あるとき早起きした父親にわたしの早朝ゲームが見つかり、「そこまでしてゲームがしたいのか!」と叱られた。見当違いなことで怒られたと納得いかなかった。大人はいろいろなことで不安になるのだ。どうせたいした根拠もなく不安がっているだけであるということをなんとなく察したのか、ただゲームがやりたかっただけなのかはよくわからんが、もちろんその後も早朝ゲームを続けて楽しんだ。

小学校の高学年になると、まわりには自我に目覚めはじめる子供がでてくる。そうしたおませな小5,小6の男子女子が交換日記などをやったりして、なかよくしているのをみて、正直うらやましかった。それと同時に、そういった男たちをみて、まったく恥ずかしがる様子もなく女の子と仲良くできるのはどういう神経をしているのか信じられない(でもうらやましい)、というありがちな思いがあった。そんな面もあったが、大好きなゲームのことを考えるだけで半分夢るような状態で、すばらしく平和な世界を生きていた。

という昔のことを今日思い出していた。

落合陽一の『これからの世界をつくる仲間たちへ』を読んでる。クリエイティブ・クラスになるのは相当むずかしそうだ。ところで、人間がよろこびを得るものは、「セックス」「食事」「おしゃべり」だという。人間がコンピューンターの下請けをやるのが普通になった世界でも、まだ人間は人間とセックスするだろうし、おしゃべりするのだろう。当然、めしも食べる。そのときに、人間の雇用主にとってかわったコンピューターからの仕事をたのしくしている人間は、現代の人間よりも不幸なのだろうか。そんなに単純ではないだろう。

みんながクリエイティブ・クラスになることはないのだから、コンピューターの下請けになることがあるだろう。AIに職を奪われるという見方をするとおそろしいことだけど、本書に書かれているように現在すでにUberなどをはじめとして、コンピューターが出した指示に従って人間が働くということがひろく行われている。Uberタクシードライバーの給料は、日本のタクシードライバーと比べて、およそ3倍もあるそうだ。Uberタクシードライバーがマシンの下請けをしているからといって、ドライバーが下等だとは思わないのではないか?

上か下かということはついつい気になるけど、そこが一番たいせつなところではないという気がする。

なんか、頑張るのっていまどきもう意味なくない?とか思ってる。そんで、がんばるのは見栄のためなんだよね、と思う。それは生きにくいという感じがして、「頑張らないようにしよう」となる。安直だね。

 

もし見栄を手放そうとしなていないのなら、これは自己欺瞞だ。うわっつらでだけ執着を否定してみせて、現実にあるそれをお手軽に忘却しているだけである。小賢しいこのうわっつらの「わかってますよ」というポーズは、自我が自らを保とうとする動きの一部であって、変化のためではなく、現状維持のための身振りなのだ。

 

こういうトリックにだまされてはいけないと思う。

美容室でラーメンの雑誌をみていたら、うまそうなラーメンがたくさんのっていて、無性に食べたくなった。写真を見ただけでラーメンのことが頭にこびりつく。ラーメンは中毒性が高い食べ物だ。夜遅かったので妥協してコンビニのカップ麺を買った。

そして、ラーメンと関係ない話をする。何かやろうとしていることがあったとして、失敗するイメージしか持てず、まさにそれをやろうとしている瞬間もいやな気分しかしないのにもかかわらず、やったあとは予想外に成功することがある。これは、ひとつには、実行する前に自分が抱いていた悪いイメージはどこまでもイメージにすぎないということである。そして、うまくいくかいかないかは、自分の予想を超えたところにあるということである。

だから、やろうとおもうのなら、まずはそれをやらなければならない。そのために必要なのは、一時の苦痛を乗り越えるガッツなのかもしれない、と思う。「ガッツ」が必要なのは、これは理屈では片が付かない問題だからである。頭でいくら「やってみないとはじまらない」と思っていたとしても、現実にそれをやるのは苦痛なのであり、それを押してやってしまうのには、根性で乗り越えるしかない。

その根性を発揮するために大切なのは、知識とか頭の良さではなく、気力・体力である。

自分がそのとき感じる心苦しさは、他の人も同じように感じるものだろう。しかしだからといって、しんどさが軽くなるわけではない。それは、各自がいくら無様になろうとも向き合っていくしかほかないものである。楽になろうとするのはあきらめたほうがよい。