masato日記

ふだんのにっき

水曜日

かなりくたびれていたけど、仲間と話をしたら気が楽になってよかった。今月あとすこしちゃんとやっていこう。

会社など、はっきりとした権力構造がある場所では、目上の人に対して不都合(かも)しれない意見を言いにくい。相手と対立する意見を言うことで、機嫌を損ねるかもしれないと思うからだ。そうなると、社内での立場があやうくなるかもしれない。そうしたリスクがありながら、言いたいことを言えるためにはどうしたらよいのだろう。

ひとつは、上司が、自分と対立する意見を受け入れる姿勢を示すことであるかもしれない。に自分の意見に固執して、反対されると怒ってしまう人の様子を思い浮かべれば、相手の意見をむげにしないのは必要と思う。 一方で、目下の人が本音を言うには、ある種自分自身への忠実性みたいなものが要るのではないかと思う。それは、たとえ目上の人に嫌われたとしても、自分には言わなければならないことがある、という思いのことだ。あるいは、それは忠誠心である必要はないかもしれない。目標を実現することが最優先であり、そのために意見する必要があると判断すれば、リスクを取る覚悟をもてる人もいそうだ。

そういうことを思った。

村上春樹の短編集を読んでいた。きょう6篇読んだ。15年程前に高校生の頃よく読んでいた。今読んでもおもしろい。村上春樹の小説を読むのは、夢をみるのに似ていると思う。過去の出来事を再構築・解釈するような感じが。

騎士団長殺し』が上巻で読みかけになっているので、続きを読もうかな。

会社で届け物をしに出掛けたところ、車のバンパーをぶつけた。その車には、後方カメラが付いていたがモニターするのを忘れていた。自分の車にはモニターが付いていない。代わりに、センサーが付いていて障害物に近づくとピピピピと音が鳴るようになっている。それに慣れていたせいで、後方を目視確認せずにバックしてしまった。

普段と違う状況で焦ると、自分が”自動操縦モード”になって、習慣化した行動が出る。習慣は、状況によっては悪く働くこともある。今回の事故では、センサーが付いていない車でバックをするという不慣れな状況があった。未経験の場面では、自分が取ろうとしている行動の結果をシミュレートし、その是非を刻々と判定する必要がある。これは安全のためだ。人はそれを「冷静な判断」とか「よく考える」とか言う。

わたしのような慌てがちな人々は、そういうことが苦手である。では、そのような人種はどのようにして危険な状況を学習するのか。

1.実際に失敗してみる
2.実際に失敗してみる
3.同上

「よく考えられない」場面に置かれた場合、自覚的に判断できない。ではどうするか。それを無意識レベルで学習するしかない。そのような深いところで出来事の結果を染みつかせる方法のひとつには、強い不快な経験をすることがある。車を事故るのはまさにそれだ。今度はわたしでもバックするときうしろに何があるか注意を払うようになるだろう。

金曜日、労働時間が長くなってきました。週末にかけて休息するのがよいでしょう

水曜日。ブログに書こうと思ったことを忘れてしまった。

思いついたことを書き留めておいたら、何かが変わったかもしれない。が、その何かはすでにどこか行ってしまった。たとえば、書いていたらそれについて話したくなったとき、すらすらと話せそうな気がする。書いていなかったら、近い将来同じようなことが頭に浮かんだとき、過去それについて思い巡らしたことがあったこと自体、忘れてしまっているかもしれない。だから、書こうとしたことは書いておけばいいと思う。

Netflix、安心感、書くこと、暇つぶし

Netflixを2時間くらい見続けるという退廃的な行いをしている』と書いたのは1月7日のことだった。それからひと月以上がすぎ、いまは2月12日。まだNetflixを見ている。というか、それはいまでは欠かせない楽しみとなって生活に定着してしまった。毎日約2時間としてひと月だと60時間にもなる。60時間だ(!)。その時間をほかの生産的活動に充てていたなら、きっと少なからず違う人生を生きていただろう――そう思うほどの時間だ。

だが、「生産的活動」とは何なのか?

たとえば、毎日その時間を勉強に充てたとしよう。60時間もあれば、何か1つの分野で「初心者」から「初級者」に行けると思う。両者のあいだには大きな差があるのだから、たいしたことだ。しかし、かなり疲弊することにもなる。仕事の疲れを押しやって、そこにエネルギーを投入するのは並大抵のことではない。そこまでして努力するというのがそんなにエライのか?わたしはNOと思う。そんなことよりほどほどにたのしく過ごす方が大切に決まっている。それがわかっていたからNetflixを毎日見ているわけだ。

いや、勉強=生産的というのは視野が狭すぎる。そうじゃなくて、人と過ごす時間とういものがあるでしょう。なんか、友達と飲みに行ったりとか、イベントに参加して新しい人と交流したり、あたらしいことに触れてみたりとか、そういうあれこれ。そう、そんな時間の過ごし方だってあるんだけど、腰が重い自分にとって、そういう場にしょっちゅう出掛けるのは負担になる。たまに行くのはいいが、行き過ぎるのはつかれるから止したい。 そういうわけなので、やはりNetflixを見ている。

こんなわたしにとってNetflixは、いまや毎日をここちよく過ごすために欠かせない存在となった。生活インフラといってよいだろう。たのしいハッピーなドラマをとおして、社交生活の雰囲気のエキスみたいなものを提供してくれる。バーチャルだから無意味かというとそうでもなく、ある部分の社交欲求を満たしてくれて、心理的安全を感じることができる。画面で起こっている楽しい何かをみていると、たしかにそういう安心感が得られるのだ。

リアルで満たされない部分をネットで埋め合わせるというと自虐的すぎるだろうか。しかし特段そういうわけでもない。むかしから人々は同じような働きをテレビに期待していたはずだ。今の時代は、選択肢が増えて、テレビだけでなく、ネットドラマ・映画、電子書籍の漫画、YouTube、などから選べるようになっている。形態のバリエーションが増えただけで、やっていることはたぶんほとんど同じだろう。なら、テクノロジーとうまく付き合えばいいだけのことだ。選んでいるのがテレビではないだけだ。(やはり自虐的かもしれない。)

結局、リアル/バーチャルという対立は意味が無いと思う。両方とも存在しているものだし、双方が互いに影響を与えているのだ。ネットでたのしんで気分良く過ごせることが、リアルでの振る舞いを健康にしたり、リアルの充実がバーチャルな何かの創造力につながったりするはずだ。よって、どちらかが「正」であるという見方は適切ではない。

まあ、いまのところわたしは何も創造していないのだが。

さて、バーチャルな世界は安心して楽しめてよいのだが、それだけだと発散されえない何物かが蓄積されてくる。そういった負のエネルギーが自分の存在をあやしいものにしていく。(自分は、はたらいてネットして、日々命をすり減らしていくだけの存在なのか?)そんなときは、自分の存在を消さないためにブログに何か書いたりしている。また書くことが、自分をちょっとでも今と違うところへ運んでくれるかもしれないという期待がある。普段浮かんでは消える思考とか、あいまいな感覚とかを文字にすることで、何かわかることがあるんじゃないか。そうしたら、新しい何かが起こるかもしれないというような期待感。まあ、書いても全然何も変わらないかもしれないが、それでもいい。すくなくとも暇つぶしにはなるのだから。何もすることがないときにやる何かがあるというのは、すばらしいことだ。