masatoの日記

やっていきます

20170806

昼前に起床。日課の勉強をする。
昼。スーパーで焼き魚を買って食す。その後、退屈、読書、昼寝。
夜目覚める。あさりの味噌汁をつくった。ひとり分の味噌汁に入れると具であふれる。半分酒蒸しにするとよい。つぎからそうしよう。
アイスを買いにコンビニまで歩く。満月。「死ぬまでにあと20回満月を見ることはあるだろうか」。今年、5回は見ている気がするので、だいたいあと3年で20回くらいみることになる。余裕でクリアだ。

『彼女の人生は間違いじゃない』を観てきた

さわやかな気持ちで観終われる映画だった。高良健吾が超イケメンだなあということと、彼女のむかしむかしの元カレみたいな人が残念な意味で中二病すぎることとか、福島の飲み屋ではたらく東京の女子大生の軽薄さとか、いろいろな感情がわいてきた作品だった。

彼女がなぜデリヘルを仕事に選んだのかは、わからなかった。とにかく、おとこのセックスに対する動機はみなおなじようにみえるが、女性のそれははかりしれないところがあるという感じ。
登場人物は、イケナイ感じの人びとと、イイ感じの人びとにだいたい別れてた。前者は、芯がなく刹那的で、終始独りよがり。安定した関係を他人ともてない。いい感じにみていられたのは、孤独をひきうけて、自分で立っていられる人。わけもわからず、衝動的に他人との距離を縮めようとして関係を破綻させてしまう人びとと、自分と相手とが別の人間だという深い自覚のうえで互いに関わりあう人びととの違いは大きい。

タイトルに『間違いじゃない』とあるけど、はじめから彼女の生き方にうしろめたい様子はなかった。だから、このタイトルには「ん?」という感じがする。デリヘル=うしろめたいものというイメージはあるから、それにつけて「間違いじゃない」というのはキャッチ―ではあるが。(まあ、べつにいいんだけど!)

彼女の人生は正しくすすむ気配でおわったからいい。それよりも、あの救いようのないくまみたいな、しょうもない元カレのほうが心配だ。あのままじゃ、ぜつぼうてきなアラフォーになるしかないんじゃないか。ホテルで拒まれたとき、無言でうなだれる彼はそのとき何をおもっていたのだろうか。ちゃんとしたおとなになれることを祈りたい。

ぼっちが自己表現についておもうこと

自分を人に向かって表現することは、人との関係をもつために必要なことですね。だがしかし、自分には自己を表現すると言うことに苦手意識がある。そんな私はとっくに30歳を越え、まもなく32になろうとしている。

ここでは、自己表現といっても幅広すぎるので、ざっくりと、自己表現=「自分という人間を他人に伝えること」程度の意味として、これについて考えてみたい。ちなみに、何が何でも表現すればよいとは思っているわけではない。普段表現することに苦手意識があって、もうちょっとくらい出した方がいいんじゃないか、と思われる人物がどうやって自己を表現できるようになるか、について興味がある。そもそも、なぜ自己表現がたいせつかとひと言でいえば、それによって他人との関係性が決まるからだ。で、自分をよく表現できれば、自分に合った関係性を他人と持つことができるという感覚を私はもっている。この前提のうえで、それについて考えたことをとりとめもなく書いてみる。

さて、自分が何者であるかということを伝えるには、たとえば、自分が大切にしていることとか、価値観とか、やりたいこととか、を言うという方法がある。これを本心から言えることが大切だとおもうんだけど、全然言えてない気がする。でも、自分にだって一応大切にしている価値観とか伝えられる何かを持ってるはず(相手にとって価値があるかはまったく別だけど)。まあ、そういうことにしておいて、それで、持ってるのに言えないのはなぜかっていうと、きっと、話は単純だ。それは、普段から言い慣れていないからだ。普段やってないことはいきなりやろうとしてもできないのだ。単純だけど、こう考えると表現できるようになるためには、普段からそれをどんどんやっていくことが大切ということになる。ひとつの方針としてこれはアリという気がする。

表現には様々な方法があって、自分の価値観を出すということは、必ずしも口に出して「私はこれを大切にしている」などと言うことではない。自分の感情やエネルギーをに外部に出すことはひろく表現とみなせるとおもう。この意味で、表現をしないというのは、表現するものを持たないというより、むしろ出てこようとするものを押さえ込んでいるということなのではないか。押さえ込んでしまう理由は人によっていろいろあるんだけど、でも、そこは沼なので深入りはやめておこう。(「原因」を分析することが行動につながる場合もあるかもしれないから否定できないけど、あくまでも個人的な感覚でいえば分析的思考から何かよいものが生まれてきたということはなかったので。)

では、抑圧するから表現できないのだとしたら、どうしたらいいのか? これは、とにかく、表現してしまえばいいのじゃないか?とおもう。好むと好まざるかとにかかわらず、いまの自分ができるところからはじめるしかないのだから。そう、まずは実行することが大切だとおもう。実行をつうじて表現していくということ。だれか有名な人も、世界が変わるのは、思考によってではなく、行動によってである、と言っていたよね。

行動ってなにかといえば、思ってることを文章を書くことでも、人に話すことでも、写真を撮ってSNSに投稿することだって、何だって自己表現になる。しかし実際問題として、何かを作ってみると、やっぱり最初は全然できない。で、その出来映えにがっかりすることが多い。世の中には同じ事をやるにしても、ずーっとずーっと上手な人がたくさんいるわけで、そういう人達と自分とをどうしても比べてしまうものだ。それで気落ちして、結局自分の表現を引っ込めてしまいがちなんだけど、でも、そもそもすぐれた表現者になることがはじめの目的ではなかったはずだ。そうではなく、いま自分を表現することに慣れていない人がまずやるのは、たとえ下手くそでみじめであってもその表現を外に出すことだ。それが文章であってもスピーチであってもダンスであっても。それが自分なわけで、逃げることはできない。みじめであっても、そんな自分と折り合いを付けてなんとかやっていくしかないし、今の限界のなかで自分に可能なことを提案するということやっていくことで、その先の自分の人生が生きやすくなっていくという希望がもてる。

会社の人が近く退職することになった。その人との間柄は、2年くらい入社が先の私が、一応先輩。職種が違うので一緒に仕事することはなかった。とはいえ、事務所は一緒だから互いが事務所に出勤しているときは顔を合わせていた。2歳年上で子供が一人いる家庭持ちの彼と独身の私。退職がきまったいま、もはや会社の人にさほど気を遣う必要もその義務もなく、彼と私の力関係が逆転しはじめた。なにが起こったかとかいうわけではない。それは、まもなく退職するということで、半分会社の人、半分ただの人間となった彼が、私と素で一対一になっているからだ。関係性が変わってきている。そういう状況にあっては、地の人間力がものを言うのだ。妻子持ちだし、年上だし、好青年な彼は、やはり人の器というようなもので私よりも上なのではないかと前から気づいていた。それでも、これまで私がきままに振る舞うのを許してくれていたのは、自分が単に(一応)先輩だったからかなとおもう。きっと先輩風をふかせてしまっていたのだろうなー。これから気をつけよう。これと似た機会はそんなにたくさんないかもしれんけど。

インタビューゲーム会にいってきた

今回は相手の話をちゃんと聴けたような気がした。

どうしてだろう。

振り返ってみると、相手が話しているあいだ、なるべくそのまま聞いていた気がする。短く質問して、それにまた答えてもらう、ということを繰り返した。 でも正直にいうと、途中で口を挟みたくなった場面は何度かあった。結局、そうしなかったのは、Oさんの情熱的な語りに口を挟む隙間がみつからなかったからだ。 でもそれがよかった。たくさん話せてもらえた気がする。

質問をするときはついつい相手を自分側に引き寄せようとしてしまいがちだ。でもそれだと誘導尋問みたいになる。これではインタビューされる側は話しにくくなるだろう。コントロールしようとしていることは、確実に伝わるし、それでいい気持ちはしないはずだ。

コントロールしようとしてしまうのは、自分が主役になりたいという気持ちのせいではないか。今回はそういう気持ちがうすかった。なにより、おだやかな気持ちで聞けたのが自分としてはよかった。今までは「相手の隠れた面を引き出してやろう」と頑張っていたので、焦っていた。頑張らないほうがいいことは確かにある。

相手が自主的に話してくれると、想定外のことを聞けるということにも気づいた。これが、特定の答えを期待して質問ばかりしていると話がふくらみにくい。相手が話したそうなことを想像してみたつもりでも、これまでの経験上、ほとんど当たったことはなかった。思考の中の相手ばかりを考えて、実体を見落としている感がある。そうではなく、本当の相手が何を話したいのかを知るには、まず考えるのをやめて、かわりに相手に注意をを向け、よく話を聞く。そうして相手の新しい面がみえたときは、自分の固定観念から自由になっているんじゃないか。人と話していて親しみを覚えるのも、そんな状態のときなのかもしれないとおもいました。

Perl入学式大阪 第2回に行ってきた

7月22日(土)、Perl入学式大阪にサポーターとして参加してきました。 ことのいきさつは、YAPC福岡で@xtetsujiさんとid:tomchaさんとお話したときに誘っていただいたことがきっかけでした。(ありがとうございます!)

勉強会にサポーターとして参加させてもらうのは、これが2回目。1回目はPerl東海という名古屋開催の同じくPerl系勉強会でした。 勉強会に参加される方は、年上の人から年下の人まで、経歴も様々です。そういった方と接することができるのはなかなかないですし、本職のプログラマーではない私にとって、勉強会はプロのプログラマーの方々と知り合えるまたとない機会です。

さて、今回はPerl入学式によるテキストの第2回構文編の回でした。内容は変数の説明、その使い方、標準入力、制御構文(if, while)、比較演算子など。サポーターとしての参加させてもらうので、ちゃんと理解しておかねば、ということで予習しました。内容はきっちりとした印象で、それなりに量もあります。これを午後まるまる使ってやってきました。

実は、私は普段人にものを教える機会はそれほどなく、あったとしても会社で同僚に何か教える程度のものです。それだって、聞かれたらの話でそんなに頻繁じゃない程度で。そういう自分が「教える立場」に回るということで、けっこう緊張しました。

独力でできる方に介入するのは単なるジャマ者だろうということで、困ってそうな人を探して、エディタを見て、みてほんとに詰まってたら様子を聞いてみる、という感じでやっておりました。しかし、PCに向かっている様子を見ただけでは、困っている加減が全然わからないということを発見。うろちょろしすぎて回りの方々の気を散らさない程度に、見て回ってみたりしてました。

そんなこんなで勉強が終わり、懇親会に突入。今回はサポーターオンリー。 まったくの新参者の私でしたが、分け隔てなく迎えいれてくださったサポーターの方々のおかげで楽しい時間を過ごさせてもらえました。 @nqounetさん、id:tomchaさんをはじめPerl大阪サポーターの皆さま、そしてサポーターとして参加できる機会をくださった方々に感謝です。 また機会があれば参加したくなるようなPerl入学式 大阪でした。

コーヒーを飲むと仕事に身が入る気がする。じゃあたくさん飲んでも大丈夫か。

おとつい、1日コーヒーをはじめとしたカフェイン飲料の一切を断ってみた。ひと言でいうと、カフェインをとらないと、機敏さは失われるが、代わりに落ち着き度合いが増すという印象だった。 きのうはコーヒーは引き続き飲まなかったが、緑茶は飲んだ。緑茶にもたっぷりカフェインが入っているので、覚醒効果を実感した。常にオンになっているとそれがある自体を感じられないが、オフにしてからオンしてみると存在に気づけるというヤツだった。 そして、今日。久々に、といっても2日ぶりだけど、コーヒーが飲みたかったので、2杯だけ飲んだ。1杯目は午前9時ころ。会社の始業すぐだ。飲むと直ぐにコーヒー的な充足感が得られた。ふにゃふにゃしていたが、ずいぶんてきぱきになった。2杯目は午後1時、昼食がおわって午後の仕事始めの頃。食後のコーヒーの効果なのだろうか、おとつい昨日と猛烈に眠かったお昼の時間でも一切眠くなることなく活動できた。以上が今日の2杯だった。

コーヒー1杯の効果は割と長いと感じる。3時間以上はあるだろう。午前10時くらいにちょっと疲れたのでおかわりコーヒーをしようと思ったが、やめた。コーヒーを投入すれば元気が回復するというわけではないのだ。むしろ、神経が過剰に興奮して逆効果だろう。何かの不足を補うために別のものをどんどん投入するというのは、食べ物とか飲み物とか薬とかではうまくいかないようだ。そういう場合、減らした方が調子がよいことが多い。不足に陥るととにかく増やすことで挽回しようとする傾向はかなり強くあるなあというのが自覚できたので、まあよかった。