想像力
昨日書いたブログを読み返していて、途中までは筋を追って読めていたが、あれっ?と詰まった箇所があった。前の文から次の文のつながりがわからなかったのだ。どうしてそういう理屈になるのかわからなかったので、つまづいた。書いているときは不自然な感じはしなかったはずなのだけど。行間で論理が飛躍してた。自分が書いた文章でさえ、読めないことがあるという経験だった。
よく「行間を読め」と言われる。言外の文脈を踏まえて発話を理解せよ、ということかと思う。それは、当たり前のように言われることであっても、簡単なことではない。
書かれていないこと、言われていないことを読み取るには想像力が必要だ。想像とは、無から何かを創り出すことではない(と思う)。少なくとも、わたしにはできないことだ。そうではなく、それは過去の経験と照らし合わせてみることで、わからないなりにもその対象の内実を推察することではないのか。
であれば、そもそも経験を持たない人間にたいして、「想像力がない」というのはあまりにも理不尽かつ残酷ではないかと思う。
「想像力がない」という烙印を押された者はどうすればよいのか。
好き勝手に生きればよいと思っている。
想像力というのは一面的にはかれるものではない。力が働く分野、そうでない分野があるはずだ。
だから、結局他人が求める想像力を身につけようとして苦しむよりも、自分が身を入れて打ち込めるような分野で活動したほうが良いという気がする。
ビビって行動できないとき、背中を押してくれるせんぱいとのダイアローグ
負けるのを恐れて尻込みしている人がいます。どうしても、やってみて負ける気しかしないので、やりたくないのですが、やった方がいいとも感じている人です。ビビっているわけです。
ビビっている人(「ビビり」)「あー、ダメだわ、絶対ムリだ。仕方ない...ためしてみて、ちゃんと負けてこよう。負けることで、次に進めるようになるんだよ...」
と独りごちています。
その日、たまたまある先輩と会ったとき、その話になりました。先輩は言います。
人生の先輩(「せんぱい」)「どうして負けるって決めてかかってるわけ?そもそも負けるってどういうことなんだよ。」
ビビり「負けるっていうのは、自分の力が足りなくてやろうとしたことができないことです。そして、それを受け入れて諦めるってことです。でも、うまくいくかどうか?って考えているだけじゃ、永遠にそれはわからないので、実際やってみて結果を確かめるのは必要だって思ってます。」
せんぱい「できないって考えているらしいけど、わからないでしょ。これまでいつも自分の想像したとおりになったわけ?」
ビビり「想像通りの時もあったし、違うときもありました。全然ダメだと思っていたときでもなんとかなることもあったし、やっぱりダメだったときもあったと思います。失敗したときも、想像していたとのは違うやり方でダメだったことが多いですね。だから、やってみないとわからないという気はします。」
せんぱい「じゃあ、今回もやってみるまではどういう結果になるかはわからないよね。」
ビビり「そうかもしれないです。」
せんぱい「それに、できなかったことが『負ける』っていうことになるなら、おまえは必ず負ける。やりたいけど、できないことはいくらでもあるんだからな。当たり前。むしろ、本当の『負け』は、恐れてやらないことなんじゃないか。」
ビビり「そういう気もします。」
せんぱい「何もしなかったら、もしやった場合にどうなったのかわからない。それではやりたかった『それ』は絶対にできない。やってないのだから。二重につまらなくないか。」
ビビり「それなら、できなかったとしてもやってみた方がまだ楽しそうですね。」
せんぱい「そのとおりだ。」
はい、 他人であるせんぱいは、好き勝手いいます。実際、言ってることは理屈として正しいように思えるので、反論の隙はありませんし、そもそもせんぱいに口応えするのもおっくうなので、肯定するほかありません。
さて、このビビっている人は、その後やるのが怖かった『それ』をやりました。すると、予想外の結果となったのです。うれしい結果でした。それを確認して、怖がっているだけでは何にもわからないな、とビビりは思ったのでした。
そして、さらに思いました。やった方がいいと頭ではわかっているけど怖れていてできないことがある。それをやるには「暴力」が必要だ。自分の外からやってくる力が。
でも、いつも都合よくそういった力を利用できるかどうかはわかりません。だから、怖いことでもやり続けるしかないのだととりあえず結論しました。やり続けていれば、そこから何かのよいことを引き出すことができれば、次第にそうすることの意味が身体感覚にしみついていくと思われるからです。そして、「暴力」はうまく使えばむしろよいものだとおもいました。
マインドフルネスについて
仏教的なはなしをする。最近、本などでよく見聞きするようになった、「マインドフルネス」に関係している。
日常、苦痛を感じることはかならずある。人間関係から生まれるが、これは避けようのないことだ。自分が正しくても、相手が正しくても、みんな正しくてもそうなる。 しかし、私たちはこの事実に全然納得していないようである。また、そうしようという気配もない。なぜなら苦痛は撃退すべきものだからだ。実際、世界・社会を良くしようという働きは必要だし、正しいとおもう。(仏教が「抵抗するな」というとき、それは社会や他人がどうなってもかまわないという意味では決してない。)
が、個々人のこころの単位でみたとき、仏教的には苦痛に抵抗することはNGとされている。不快に抵抗すればするほどそれは増幅し、むしろ苦しみが増すのだ。
他方、わたしたちは抵抗しまくっている。苦しんだりするのは絶対にイヤなのだ。まあ、抵抗を抵抗と認識すらできず、反応的にそうしている面が強い。「快」を求めるコードにのっとられているからだ。そして、これは不快を忌避することとセットになっている。
…こんなふうに考えるようになったのは、マインドフルの本を2,3冊よんでからだ。それからけっこう経った。自分は不快には抵抗しないようにしよう、という意識があるつもりだった。
ところが、つい最近自分が「本気」で不快に抵抗していることに気づいた。真剣に、本当に、不快な感情に抵抗して退治しようとしてた。どうやら、あたまの理解はうわっつらだけだったらしい。
そう気づいたのは、「苦痛を完全に避けるのは不可能だ」ということをぼんやりと思っていたときだった。その直後、「でも自分は抵抗しているなあ…あれ?」という感を得た。これは、実に「マインドフルネス」な経験であった。
ジャン=リュック・ナンシー『恋愛について』を読んだ
読んだ。10~15歳向けに開かれた講演会で、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーが語った内容を文字おこししたもの。講演当時のナンシーは68歳。現在77歳。
印象に残った言葉
1.
愛するとわかるのは、私たちは一人のときは決して本当にいい状態では生きられないということです。私たち人間はひとりぼっちで生きるのにも、大きなグループで群れて生きるのにも向いていないのです。といっても、相手と一緒にいるのは単に「心地よい」からではありません。それだけではなくて、相手といると「何かが生じる」ということがわかるからです。その人といると「何かが起きる」ようなそんな相手と関係を結んで生きるよう、私たちはできているのです。
「二人」でいる意義を示す言葉。「一緒にいるとたのしい、おちつく」を越えている。深い。
2.
十八世紀のスコットランドの哲学者ヒュームはこんなすごいことを書いていた。人の美しさは、誰かから求められているって言うその人の気持ちの表れだってね。こういう考え方は、グラビア雑誌とかに出てくる美の観念を修正してくれるよね。
「うつくしさ」は個人の所有物であるという認識をひっくり返す見方。「誰かから求められている」の「誰か」は、本書の文脈からして具体的には「愛」を与えて/与られている人か。ナンシーがいってる「グラビアとかにでてくる美」っていうのは、「疵がない」とか「そそる」とか、モノとしての性質のことと推察する。完全に商品としての。客観的な基準で優劣を定めているということは、すなわち相対的なクオリティの競争であるということだ。だからそこでは、1級品が君臨して、2級、3級みたいに優劣が生まれる。排除されるものが生まれ、嫉妬が生まれることになる。そういうことじゃないんだよ、っていうことか。一方、比較とかじゃなくて、誰かから求められている人の発する美しさは、見る人のこころを穏やかにする何かがある。
この本をよんだ理由
哲学者の語る恋愛観に興味があった。恋愛というテーマに正面から向き合うのは照れみたいなためらいがある。しかしそれは、そのことをとても大切だと思っていることの裏返しでもある。この講演は、主に子供向けであり、くだけた口調で語られていたため読みやすかった。哲学書は、専門用語を知っていないと読み解けないものが多い印象。この本は予備知識なしで読めてとっつきやすかった。
著者の印象
ジャン=ジャック・ナンシーのことは、この本で始めて知った。ウィキペディアに掲載されている写真は禅僧のようだ。
「ジャン=リュック」について
フランス人で「ジャン=リュック」という名前が多いなーと思ってた。それに「=」でつないでるのってどういうこと?と思ったのでしらべてみた。
フランス人によくある名前を6つのポイントでまとめてみた | Spin The Earth
フランス人の中には、聖書に出て来る聖人の名前を2つ並べて1つの名前(ファ-ストネ-ム)としている方々も多く居ます。なぜ2つの名前を付けているのかと言うと、単純に両親が2つともの名前をファ-ストネ-ムとして使いたかったからと言うだけの理由だそうです。
ということらしく、ようするに「ジャン=リュック」はひとつのファーストネームらしいのだ。
長いことの謎が解けた。
家計簿はじめてから10日目の振り返り
11月のはじめからスマホで家計簿つけてました。「レシーピ」というアプリで、昔はレシレコっていう名前だったんですが、レシートを写真で撮影すると文字を認識して自動で入力してくれるのを使ってます。
10日間の食費は約10,000円でした。なので、1日平均だと1000円です。わたしは朝食を取らないので、一日2食でその計算です。
食材の内容は主に、みそしるの具材である野菜と、魚または鶏肉、たまに豚肉、そしてビールです。
このペースが続けば、一ヶ月の食費は大体3万円前後になるでしょう。
ここまでの感想
家計簿は苦手意識があって、できたらいいけどムリ!という感じでずっと避けてきたんですが、それはひと言でいえばめんどいからでした。でも、最近のアプリは文字認識がとてもよくできていて、レシートをカシャッってやるだけで、正確に金額を入力してくれます。毎日やるものだから、これだけかんたんにできると続けやすいです。
あと、買い物でいくらつかってるかくらい、なんとなく把握できるだろうくらいに思っているところがあったんです。実際は全然できていなかったんですが。
記録を取っていると、客観的なデータが得られて良いです。数字が見えるというのが大きい。実感のわきかたに違いが出ます。コレとかアレをどういうペースで買い物していると、いくらお金が必要になる、ということが大体の感覚としてわかってくるところがあります。
頭でわかっているつもり、と記録をとることの差は大きいと思いました。
生きていくだけなら大体大丈夫ということがわかった
食費がひと月3万なら、家賃、光熱費、通信費、その他雑費など含めて、ひと月15万くらいあれば、さほど不満なく生きていけそうという感覚が得られました。そして、ひと月15万を稼ぐ自信はあるので、だったらまず死ぬことはないだろうという最低ラインの安心・自信をもつことができました。
家計簿以前はどうだったのか
手取り収入をほぼすべて使い果たすという生活を続けており、ある意味ですごいのですが、別の意味では完全にアレな人です。全然自慢できないですね。
家計簿は、お金の出入りの記録を取る、っていうことだと思うんですが、記録を取るだけで消費行動が変化するっていうのがおもしろいです。レコーディングダイエットという減量手法がありますが、原理はそれと通じているんだと思います。
記録の使い道について
今使っているレシーピというアプリは、データを出力することができます。家計簿を継続して、ある程度のデータが溜まったら、それを分析にかけてみたらあたらしい傾向が発見できるんじゃないかという期待があります。あと、レシートの画像は保存することができるので、「あのお店なんて名前だっけなー」みたいな場面でも便利じゃないでしょうか。
2017/11/11
「好きなことをやればハッピー。好きなことをやろう」とひとは言う。その人は、実際に好きなことをやれていてハッピーを実感しているんだろう。
それは「好き」を持っている人だけに許されたことである。
「好き」とはなにか? ひと言でいえば、「やってて楽しいこと」だろう。自分にそれはあるか? 「とくにない」と思った人はわたしと同類だ。
胸を張って好きなものをいえない人間にとって、最初の言葉には困惑させられるところがある。この言葉には、だれしも好きなことを持ってて当然といっている様子があるからだ。
好きなことをしている人は輝いて見える。反対は、陰キャラっぽくないか?自ら陰キャラだと思われたいひとはいない。ここに、好きなものがなければならないという圧力が生じる。わたしはそういう圧力を感じてしまう人間である。胸をはって「好きなものは別にないです」とさわやかに言い放てたら、と想像してしまう程度に。
わたしにとって「好き」とは試行錯誤の末、発見するものである。「私はこうして『好き』を発見した」ということを書いている本があったらぜひ読んでみたい。直接話を聞くのでもいい。「好き」を見つけることはできるのだという可能性をみてみたいからだ。それは希望そのものではないか。
2017/11/10
何か嫌なことがあってスイッチがはいってしまい、思考のループにはまることがある。この場合に、それまたはその周辺の事柄についてブログに文章を書いたことがあると、自然と止むことがあった。続けるのがしょうもなく感じられたからだ。スムーズに平穏な状態に戻れたことは、とてもよいこと。嫌なことをずっと考えてるのはしんどい。超消耗する。
なんで考え続ける気が失せたのかと言えば、ブログに書いたことがある時点である程度、それは検討済みのことになっていたから。頭のなかでこねくりまわした理屈で、書いた文章よりまともなものを生み出せたおぼえがなくて、一度書いてるから今考えても仕方ない、みたいな気持ちになれる。ある程度納得できる形で意見を出しておけば、次回それがやってきたときに、振る舞い方を決めるために考えるべきことは絞りこめる。再検討するにしても、いまある検討案をたたき台にできる。更新して、成熟させられたらよろこばしい。
しょぼくても、意味わかんなくても、日常的に文章を書いていると、日々生まれる悩みと折り合いをつけることを助けてくれる気がしている。書いたことがが正解じゃなくてもいい。だって、正解はいつも事後にしかわからないし、状況によっても変わる。そんなあらかじめわかりようのないものだから、常に不完全なんだが、それで構わない。意見を出し、納得することに価値がある。悩みまくって消耗するのは、つきつめれば、それに納得できないからだよね。
全部が全部そういう具合に納得していけるかというと、難しいんだけど、潔癖にならなくても大丈夫だ。個人的には、抱えている荷物をちょっとでも捨てられるだけで成功している。そうやって習慣的に心配事を整理できていれば、ウダウダしがちな私のような人間にとっては、いくらか気分よく生活できるようになるんじゃないかという気がしている。