masatoの日記

やっていきます

学生の頃、月給8万くらいで2~3か月生活していたことがある。
家賃は3万円くらいだった。
ほぼ毎日トマトパスタをたべていた。
プレハブみたいな建物で、2階建ての2階が部屋だった。
朝になると、屋根に鳥があつまってきて、うすい金属の屋根のうえを歩くと、部屋はカツカツカツカツという音で埋め尽くされた。
12年くらい前の出来事だ。
その頃、何を考えていきていたのかと思うと、全然わからなくてとても不思議な感じがする。

実家から出たくて、一人暮らしがしたいと思ったから引っ越したのだった。
スーパーでバイトしていて、時給は800円くらいだし、長時間はたらく体力もなかったから、収入は期待できなかった。
だから安い部屋を借りるしかなかったのだ。

それでも学費は親が出してくれていたし、同級生には学費も生活費も自分で稼いでいる人が2,3人いて、彼らとくらべると自分は生活能力で劣っていると感じたものだった。
それでも、結局自分にできることしかできないわけだから、生活費のことだけ気にしていればいいとはいえ、毎日パスタを食って、週末は金を使わない過ごし方をして生きていたのは、窮屈ではあったと思う。あんまり覚えてないのだけど。

選択肢がなかっただけとはいえ、そういう生活でしのげていたのは生命力があった。  

大学生活というと、「超楽しい」「サイコー」みたいなイメージが多い。「大学つまらんかった」と人が言うのを聞いたことがない。それは、学生生活をエンジョイした人びとが多数派だというのと、大学生活つまらんかったという発言が負け犬的雰囲気を帯びてしまうから口にしたくないというふたつの理由があると思っている。

負け犬はいやだ。

だが、過去は過ぎた。それは変わらない。

本当のことをいえるのが、結局はよいのだ。

自分は、大学は楽しかったし、つまらんかった。

楽しかったのは、おもしろい人たちと会えたこと。
つまらんかったのは、頑張ったつもりだけど、自分の殻から出られなくて他人と本当の意味で交流できなかったことかと思う。

自分なりに力を尽くしたつもりだったが、うまくいかないことが多く(うまくいったこともあるにはあったにせよ)、他人と自分を比べて劣等感にさいなまれたりして過ごしていた。
今思うと、そんなことどうでもいいからもっと適当にやれよ、とか思うが、当時の本人はそうとは思えないのだから仕方がない。
大人は、経験があるからいろんな言葉をもっているが、それは単に失敗の数が多いからだと思う。
そしてその失敗の経験は言葉では他人に伝達できない。
その失敗をじかに生きてみないと、理解できない。

言葉が他人に何かを伝えられるときは、その人の雰囲気によってとか、言葉の性能がすごかったりするときなのでは。
つまり、伝わっているのは、相手の言葉以外の何かであるか、言葉から常軌を逸した何かが出てしまったときに限られる。
それ以外の言葉は無力だ。それで何かわかった感じのことを表現して、わかってない者にとって何を伝えられるというのか。 そう思ってしまう。

今年も早いものですでに2月になっている。4月から東京ではたらくために引っ越しをしなければならないのだけど、いよいよさったと動かないと住む場所がなくなる。

うさぎを飼っているので、ペット可の物件でなければならない。ペット不可の部屋で飼うのは心理的負担になるのでダメだ。多少高くても安心して生活できることの方が大切である。

よく言われるように東京の賃貸はバカ高くて、同じ金だせば他の地方都市ならキラッキラのお部屋にすめる程だ。名古屋で賃貸を探してみてほしい。8万、9万の賃貸は、家族で住めるような広さの部屋か、それともひとり暮らし向けなら悠々自適な感じの部屋がみつかる。それが東京だと6畳ワンルームだったりするわけで、理不尽だと言わざるを得ない。まあ、家賃をものともしない高収入であれば問題はないのだが、明らかなように、そうではないわけので、人はどうしようかと不安になるのだ。

賃貸が高い話はもういい。

今回の引っ越しは人生ではじめて他県への移住となる。ずっと愛知県で生きてきた。県内の引っ越しなら4回している(割と多い気がする。平均どのくらいなのか?)。はじめはドキドキするが、慣れると割と平気。知ってる土地だから。でも、全然知らない土地に行くとなると、どういう生活をすることになるのかイメージがあいまいになって、心がざわざわする。このざわめきは、学校の頃のクラス替えを控えた時期のそれと近い気もする。期待と不安が入り交じって、下手したら友達ができなくてどうしようとか思うし、でもかわいい女の子と仲良くなれたらいいなとかいう希望もあって、落ち着かない時期。学校みたいな固定的な環境では、クラス替えは一大事だ。

大人になると変化を怖れるとか言う。歳を取るにつれて失うものができてくるとか、若い人は失敗しても取り返しが付くとかそもそも失うものなどないのだとか。そうはそうかもしれんけど、若い人ほど自分以外の何者かによって何かを強制される機会が多いんじゃないか。それは、好むと好まざるとに関わらず、変化させられてしまうと言うことだ。若くたって変化や失敗が怖いひとはたくさんいると思う。怖くてどうしていいかわからないけど、他にオプションがないから、やるように追い込まれているだけのときだってある。年配者は相対的にそういう状況になりにくい。

なぜなら、あるポジションにそれなりの期間いると、周囲が自分に合わせてくれるようになるからだ。これは他人に理不尽な要求を迫られる機会が減るということである。これを安定と呼ぶかぬるま湯と呼ぶかは完全に個人の感じ方の問題かと思う。自分は、安定だと思ったし、ぬるいとも思った。同時にぬるいのが何が悪いのかとも思った。でも結局、転職することに決めてしまった。

ところで今の場所には、5年ほど暮らしている。そのあいだ同じ会社に勤めていた。社員数70人ほどの会社なので、社内の環境には慣れきっているといってもよく、部署異動などで同じ社内でも新しい環境になるということはなかった。そのために、学校のクラス替えのような強制的な環境変化はここ長らく起きていなかった。ある意味、コンフォートゾーン内で生活を完結させられるようになったといえるだろう。そんなわけで、転職のように強制的に環境が変化する機会は久しぶりだ。

環境が変わるというのは、よくも悪くもストレスがかかる。負荷がかかると、あれこれ考えるきっかけになって、それはまた興味深い。

引っ越し業者の選定とか、荷物の整理とかがんばろう。

エビスビールがうまくて無限に飲んでいられる。 ちょっと前はエビスビールの良さが全然わからなかったんだが、なぜか今になって愛飲するようになった。変わったのはビールの味か自分の味覚か。これだけうまいと、わざわざ高い輸入ビール買うまでもない。(味の種類が違うから、あれはあれでよいものだとは思うけど。)でも値段の話をすると、日本では酒は高くて、ヨーロッパいくとギネスが水より安かったりするわけだから、まあ、高いことは高いということになる。

ひとりで晩飯たべると、体調がいいときはビールのみたくなる。ビール飲まない場合は、仕事モードが抜けない。で、実際仕事してたりする。いいのかわるいのかよくわからんが、ビール飲めば平和なのでそうしている。

実家のお父さんは、ビール2缶目でお母さんに小言を言われるので大変そうだ。もし結婚するなら奥さんは酒に理解のある人がいい。好きすぎるのも困るのでバランスが大切。

ドラマで、カメラを向けられて嫌そうにするという演技を見て、ストーリーを撮っているカメラには自然に振る舞い、ストーリー内のカメラには嫌がれる変幻自在さをみた。これはとても高度なメタ認知に違いない。

月曜に夕食を買って帰るスーパーで、はじめての半額そうざい選び放題。
めずらしいらしく、パートのおばさんふたりが「これはやばいね」とつぶやき合っていた。
食べ物がたらふく余ってしかも安い。でも食べる人が足りてない。供給過多の結果を夜のスーパーで見た。

そこで売ってる惣菜を知っている。揚げ物、麺類、にぎりもの。エビフライ、アジフライ、唐揚げ、ぎょうざ。やきそば、オムそば、おはぎとおにぎりにすし。

カレー、アジフライ、串カツを買って帰った。

最近フレンズっていう二十年くらい前の海外ドラマ見てて、それで今日たまたま日本の十年くらい前のテレビドラマを見る機会があった。フレンズだと、かわいい系の女優はストーリー内でも恋愛経験豊富でモテキャラで、見た目のイメージどおりのキャラ設定。一方、日本のはきれいな女優さんがウブキャラということになっていて、現実的にそれはないのではと思った。だって、そんな日本人見たことないもん。そういうのドラマでしか出てこないよ。

 

海外ドラマならそういうつっこみなしで楽しめる。日本でずっと生活してきているので、海外の生活の現実を知らないから、現実とフィクションとで葛藤しないからだろう。

 

それとは別として、フレンズではゲイとかレズビアンとか、繊細な部分をユーモア混じりにおもしろく語っていて、二十年前にそれをやっているのは日本との文化の違いを感じる。

 

あと、特徴的なのはキスシーンの違い。フレンズはアメリカのドラマなんだけど、やたらキスシーンが出てくる。そのキスしてるときのショット構成が日本ドラマと大きく違う。フレンズだと、会話シーンとキスシーンが同じ距離、アングルで撮られることが多い印象なんだけど、日本ドラマだとキスするときカメラが俳優にぐっと寄る。これは、カメラが三人称視点か二人称の視点という違いで、アメリカと日本とでは、キスに持たせれている社会的な意味づけの差を見て取れる。アメリカではキスは、そこらへんの人に見られてもOKなものだけど、日本では当事者だけのあいだで交わされるものという性格が強い。

 

昔実家で家族とドラマ見てるとき、キスシーンがあると気まずかったんだけど、それは多分キスが二人称視点で撮られていたことと関係してる気がする。それはプライベートな視点なわけで、つまり、ストーリー内の恋人たちの視点なわけ。それを、母親と父親とがいる前で見せられる。物語への没入度合いが深いほどより恥ずかしさは増すだろう。だって自分のキスを親に見られたくないと思うから。

 

大人は、そんなデリケートな事態が思春期の子供に起こっていると知ってか知らずしてか、美男美女のあいだのプライベートっぽいな恋愛を鑑賞してときめいているのだ。