masatoの日記

やっていきます

きょうやったこと:カレーを5リットルくらい作り、だらだらした。

カレーは味が濃すぎた。水で薄めて食べていきたい。向こう1週間はもちそうな分量がある。冷凍しないと。

あとはNetflixでフレンズをみて寝てすごした。よくもあれだけ寝れるものだ。そのおかげで深夜に目が覚めて活動している。

そういえば、あと2週間でゴールデンウィークだったことにさっき気づく。カレンダー通りの休日だと5月1日、2日に出勤しないといけない。実家に帰省するには新幹線を使うつもりだ。「ぷらっとこだま」が割と安価だった。ネットで予約したいので、先日JR東日本のクレカを頼んだ。

あすは届いたベッドを組み立てられるといいと思う。

前の会社の人と近くの居酒屋いった。別の会社にうつってみないとわからない前職のよさなどを話した。隣の芝は常に青いものですね。まだ一月ほどしかたっていないが、なつかしい。

隣の芝は、隣に移動したあとでも青くあり続けるか?あとはさほど青くない。青く見える方に何度か移動したら一周したようになって、どっちもどっちだし、それぞれのよさもあるというようなこともわかってくる。その意味では、ふたつよりみっつの場を知るのもよいかもしれない。いずれにせよ、気が済むようにやるしかないという性分だし、それを止めるものもなかったから、やるしかなかった。何度か繰り返して、落ち着くかもしれない。落ち着くのはとても良いことだと思う。基本、おちついていたい。正直、変化はたまに程度でよい。たまに、でも大変。常に変化し続けると言うのはかなり大変なことで、気軽に言えることではない。言うのとやるのとでは全然違うのだ。「転がる石にこけは生えない」という言葉がある。こけを良いものと見るか、それとも悪いものと見るかで意味が変わる。はてしてどちらだろうか。

いまプログラミングのスクールに通っている。常時30人くらいがいる部屋で、スクールが提供するカリキュラムに沿って各自学習に励んでいる。今日の感想。となりの席にいた人が興味深かった。ひとりごとっぽく「ああ、、、疲れたぁ。。。」と今日だけで3回くらい言っていて、ほんとうに疲れているんだなということが伝わってきた。ひとりごとでそう言うところがいいと思った。多くの人は疲れていてもそう口に出して言ったりしない。そのかわりに身体に力を入れて頑張るだろう。それはつらい、と思う。自分の理想としては、疲れたときにつかれたといいたい。でも言えない。言うと、体力のなさや意欲の低さとして相手に解釈されてしまうような気がするからだ。解釈は、誰がそれを言うのかによってきっと変わるのだろう。あきらかに弱ってそうな人が「疲れた」と言えば、大丈夫かと思ってしまう。まだ大丈夫そうな人がふわっという「疲れた」なら、ああ疲れているのは自分だけではないのだな、と相手に思わせてむしろリラックスさせる効果がある。彼がそうだ。ちなみに、教室にそういうタイプの人はほかにみかけていないから、この人は希少種だ。もちろん、全員の近くに行って確かめたわけではないからわからないのだけど。

はじめてコンビニの惣菜をたべてみたら意外においしかった。たけのこの煮物、肉じゃが、筑前煮がうまい。スーパーはちょっと遠くていくのがめんどい。一方のコンビニはすぐ行けるところにあって、常に惣菜が売っている。コンビニの食べ物には、本来口にすべきではないからだに悪い成分が入っているはず(と信じている)なので、そこで売られている惣菜を信じていいのか迷っている。

しかし存外においしいし、ある程度の期間保存できるうえ、あたためてすぐに食べられるので非常に使い勝手がよい。コンビニでは、コンビニエントな食物が安定供給されている。

今日の自由主義においては、個性を、あるいはよく言われるように自立性を高く評価し、他の資質はすべてそこから発するとみなす傾向がある。すでに触れたように、こうした傾向が、ロールズ、セン、ヌスバウムが目的を論じたがらない原因の一つとなっている。だが、このような姿勢は誤りではないか。自主自立は好ましいけれども、他に優先して好ましいわけではない(愛のために自立を犠牲にしても、ひどく馬鹿げているとは言えない。)倫理的配慮という広い視野を失った自主自立は、「無関心の自由」に堕落しかねない。そうなったらあらゆることが許され、一切の配慮がなされなくなるだろう。最近よく耳にする「価値選択」という表現は、この混乱の一つの表れである。正しく理解していれば、選択は価値に応じてなされるものだ。そうでないから、選択が恣意的になるのである。(『じゅうぶんに豊かで、貧しい社会』)

個人の選択の自由がふえてから、言動の結果を個人の責任に帰す見方が強まった。ふしあわせが自己責任になり、それを達成できないと自己不全感無がつのる。そこから逃れようとして、「価値選択」により人生を改善しようともくろむことになる。ほんとうに価値があるのは何かわからなくなってしまう。

読書した『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』

この本のタイトルが示すのは、じゅうぶん経済的にゆたかでありながら、しあわせではない社会のことだ。2年ほど前、経済的にゆたかであるにもかかわらず、全然しあわせな感じがしないのはなぜなのか、ちょっとでも知れたらよいと思って買い求めた本。でも「なぜあなたがしあわせを感じられないのか」ということは書かれていなかったので、安直にそういう答えを求めていた僕は、よくわからなくなって途中で読むのをやめてしまった。

最近本を整理することがあって、この本を再発見した。10円そこらで売るのがもったいなかったので手元にのこした。途中から読みはじめた。よいことが書いてある。以降、第6章「よい暮らしを形成する7つの要素」からよいとおもった箇所をたくさん引用したい。

みんな「しあわせになりたい」とはよくいうが、そもそも「しあわせ」とは何かという問題がある。本書はそれをちゃんと定義する。それで、しあわせの土台には「よい暮らし」があるだろうということを言う。で、「よい暮らし」とは何か? それは、国や文化をとわずある程度普遍的だよね、といっていて、「基本的価値」とよび、7つ挙げていた。

基本的価値と私たちが定義するものは、よい暮らしのための単なる手段ではないし、そのための潜在能力でもない。よい暮らしそのものである。

基本的価値というのは、よい暮らしそれ自体、という点がおもしろかった。「何をよいと判断するかは人それぞれ」といってしまいがちななか、「これが人間のしあわせには必要なんだ!」と言っているのがよい。

次の引用は、「第6章 よい暮らしを形成する7つの要素」から「余暇の要素」。

現代では、余暇はくつろぎや休息と同義語のようになっている。だが古くは、余暇という概念は単に仕事を休むことではなく、それ自体が一つの特別な形の活動だった。この意味での余暇は、疲れをとったり英気を養ったりして何か別のことに備える手段としてではなく、それ自体をするものだったのである。哲学者のレオ・シュトラウスは友人のクルト・リーツラーに宛てた手紙のなかで、「精神を働かせることは、苦痛の多い労働ではなく、余暇を優雅に真剣に使うことである」と述べた。ぜひとも「余暇」をこの意味にとってほしい。

知っているのは手段としての余暇ばかりではと自問してしまう。

とはいえ、真剣さや努力が余暇の条件だというわけではない。大事なのは、外から強制されてやるのではない、ということである。この意味では、マルクスのいう「疎外されない労働」が近い。マルクスはこれを「生活を自由に表現すること、ひいては生活を楽しむこと」と定義している。

「疎外されない労働」という言い方おもしろい。

余暇が基本的価値の一つである理由は、はっきりしている。余暇のない人生、すなわちすべてのことが他の何かのためになされる人生は空しいからだ。そのような人生は常に準備のために費やされる人生であり、現実を生きることがない。ほんとうの意味で世界を見つめ広い視野に立って熟考できるのは、必要のくびきから解放された時だけであり、したがって余暇は、より深い思索、より豊かな文化の源泉だと言える。

「常に準備のために費やされる人生であり、現実を生きることがない」。よく言ってくれた。心当たりがありすぎ。

蟄居

すべてがだるくて起きているのが嫌だったので寝つづけ、昼過ぎまで布団でグダグダしていた。 いい加減飽きたところで起き上がり、徐々に意識と気分が回復したところで、昼飯兼夕飯(予定)のカレーを作りはじめた。黙々とカレーを作っているとき心が安定するのを感じた。鍋いっぱいに作った。あと2日くらいは食べられるだろう。もっと大きい鍋があれば、週末に作りだめして冷凍しておいてもいいかなと思っている。しかし冷凍したカレーは作りたてのカレーみたいにおいしいのだろうか。あまりたくさん作ってしまうとありがたみが薄れてしまって、ずっと食べないまま冷凍されっぱなしになってしまうような気もして、たくさん作りすぎるのもどうかなと思っている。

カレーを食べて満足したあと、部屋をすこし片付けた。そしてあとは、最近の出来事やこれからの予定についてあれこれ考えたりしていた。

部屋からいっぽも出ずに1日を過ごしたのはひさしぶりだった。外に出るのがだるいので、ということで思い切りよく引きこもれたところはよかったとおもう。「だるいので」に一切反論を許さない姿勢。「でも」も「しかし」もない。蟄居に徹しきれた。だからどうした、というのは、だから休息できてよかった、ということにしておく。

ところで午前、布団のなかでもぞもぞしているとき、田舎の風景が脳裏に浮かんできたのがおもしろかった。地元に川沿いの堤防ぞいの国道があって、ここは見晴らしがよいため、川の水が流れている様子や河原の石ころどがよくみえる。空も広い。部屋をでたらそういう風景があったらいいのに、とおもった。以前はあって当たり前に受け取っていたものが消えてしまったり、それらへのアクセスが絶たれる(ような感覚になる)と、その対象への想像力がゆたかになるという事例だ。けっこうリアルに風景がよみがえってきて、脳って潜在能力あるなという感慨をもった。