4/9
(08:20+1)
昨日の日記を書く。(日記は当日に書いたほうがいいような)
天気が良かった。
体調はあまり良くなかった。
最近眠りが浅い。(どうしてなのか)
午前はミーティングで人と話をした。
午後は細切れに種々のタスクを消化した。
体調がいよいよ無理になってきていたので、帰宅後はめし風呂寝るしかしていない。
電車では簿記3級の勉強をした。
会社の人が語学と簿記が両方できる人は少ないといっていて、それならやってみようという気持ちになった。
人の評価で行動が左右されやすい性格を有効利用する。
メンタルはふつうなのだが、身体がしんどい。
寒暖差が激しいからかもしれない。
4月はそういう感じだ。
めし風呂寝る、はよい(何も考えなくてらく)(心理的、知的、身体的負荷が低い)
4/8
起きたら雨が降っていた。
傘を持っていない。コートのフードで今日までしのいできた。
今日もそれで乗り切った。
まだ月曜日だった。
先週、月曜に打ち合わせがあるといわれていたが、声をかけられなかったので、打ち合わせ自体はやっていたが自分は参加しなかった。
それはそれでよい。
昼休みはコンビニおにぎりと総菜。
コンビニは総菜も充実していて食うものに困らない。
540円。
コンビニ飯としては高い。
最近食欲が50%減している。
減る前は120%くらいあった。
差が激しい。
そのうち上がるのだと思う。
昼休み、公園に出かけたが、寒いのですぐ戻った。
日曜日は20℃以上で今日は何℃かしらないが、気温差が激しい。
午後の仕事をやって定時に退社。
帰りの電車が地獄のように混んでいて何事かと思った。
JRがなんかなっててそれが原因らしかった。
自分はJR勢ではないので混雑を通過して別の線に乗り換えた。
そっちの線も、線路に人が入ったため調査のため全線停止とかやってて、
ちょっと混んでいた。
しょっちゅう線路に人がはいって止まってる印象。
もしかして同じ人がやってるとか?
よくわからない。
4/7
寝てしまったので、昨日の日記を今日書く。
11時過ぎ起床。
目を閉じ続けているのがつらくなって起きた。一昨日長い時間寝ていたせいだと思う。
昼過ぎ、投票にいってきた。投票所の雰囲気は緊張する。
帰りにスーパーで焼きそばとからあげを買った。(昼飯)
これで当日のタスクが完了。
昼寝した。
夕方、散歩にでかけた。
桜が見れたらいいと思った。
普段いく散歩コースに行くと桜が満開になっていた。
今年の桜を見たぞという気持ちなった。
散歩するとMPが回復してよい。
夕食はカレーを作った。
最近別のレシピで作っている。
以前のレシピの方がおいしい。
完成度がまだ足りていないだけかもしれない。もうちょっとレシピに忠実に作ってみるとよい。いつも適当にしてしまうので。
ベッドでツイッタ見てて、目を閉じたら寝落ちしていた。
外国語学習
英語を仕事で使っている。
いちおう生存には問題ないレベル。(ギョウムの遂行という意味で)
読み書きが中心。
自然なスピードで会話するのはむずかしい。自分が発話するには時間がかかりすぎて、相手にまってもらわなければならない。
もっとすらすらと話せるようになりたい。
そのためには、練習(訓練)が必要だ。
なんだけど、生存には問題ないからそれ以上を追い求めるにはこの程度の動機ではよわい。
言語の運用は、会話と読み書きにわけられる。
自分は、そもそも母国語でも会話は流暢にいかない。とはいえ、いまの英語の流暢度はぜんぜんそこに及ばないから、たぶん伸びしろはあるか。
読み書きはどうか。
読むのは、かんたんな表現で書かれている文章ならいける。とはいっても、かんたんであると思われる文章でも、ネイティブによるツイッタはわけがわからないことが多い。
なじみのない表現が使われていてその意味を知らないし、類推もむずかしいのだ。
そういった表現は、たくさん触れるようにして親密度をあげていけば理解できるようになるはずだ。
書くのはむずかしい。
書けば書けるが、流暢度が低く、きびしいと感じることが多い。
かんたんな文章をすなおに書くのは案外むずかしくて、書けるようになるまでは書けない(当たり前)。
はなしは少し変わって、日本語に翻訳するときは、日本語がどれほど書けるかで翻訳文のこなれ具合の上限が決まる。
読めたとしても、読みやすく正しい日本語でそれを執筆できるかどうか。
インターネットには、原文と訳文を両方確認できるドキュメントがたくさんあるから、上手な翻訳と原文をつきあわせて、自分ならどういう言葉で言うかを考えながら、先生の翻訳で答え合わせするような感じにして学習していくと成長しそう。
ただし、エネルギーや動機が足りていなくて、こういう取り組みができたためしがない。
飲酒について
酒をたくさん飲み続けるのはからだに悪いよ。昨日飲まなかったら、今朝からだが軽いのなんのって。酒を習慣にしているとからだの重さにも慣れてしまうよね。いまのからだが重いんだってことがわからなくなるよね。重いとか軽いとかいうのは実感するものであってね、今しかわからないんだ。今が過ぎたら次の今がすべてだから。過去と今の重さは比べようがないよね。もう感覚がすぎてしまっているから。観念としての重さ軽さは測りようがないってことだよね。だからまたお酒を飲みすぎることがあってもね、いまの重さがすべてだから、重いかどうかってまたわからなくなってしまうよね。だから、定量的に判断するのがいいよね。たとえばワイン1本*1は飲み過ぎだって。ビール1缶までなら大丈夫とかってわかるからね。だからさ、言うだけならかんたんなんだよ。でも言うくらいしかできないから言うしかないんだけどね。
*1:たとえばの話。
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職場でエクセルとかを使っている。ようはデータを編集するアプリケーション。それで、そういうアプリの扱いが苦手な人がいて、そこそこの感じに使えるようになってほしいとき、どうするのがよいのだろうか。
1) 昔いた怖い先輩だと、「仕事で必要なスキルなんだからそれくらいできて当然」と言う。意見としてはわかるが、エクセル苦手ちゃんを仮にAさんと呼ぶことにして、Aさんが勉強しなかったらおしまいなのでは、とおもう。おしまいになったら先輩がAさんをいびって、Aさんは辛くなり、組織の生産性が上がらないどころか、そこから雰囲気が悪くなって職場が汚染される。いいことがなにもない。
2) わからないことがあるなら、わかるようになればよい。先輩が手順書なり動画なりを使って、操作方法や考え方をAさんに伝えればよい。それでAさんは仕事ができるようになる、たぶん。先輩は少し苦労するかもしれないが、Aさんも先輩もしあわせになれる。
このとき、Aさんはとくに教えてほしいとは思っていない可能性がある。反対に教えてほしいと思っている可能性もある。要は、どっちかなんてわからない。でもこれはわからなくても全然問題ない。単純に「Aさんは必要な知識を得てギョウムを遂行できるようになりたいと願っている」という前提で動けばよい。もし願っているのであれば、Aさんは多かれ少なかれ意欲的に知識を覚えるだろうことが期待できる。そうでなければ、まあ、うまくいかないだろう。
だが、ここでもし先輩が知識を伝達する労を惜しみ、「Aさんが本当に知識を得たいと思っているなら自分で動くはずだ」あるいは「それは私の仕事ではない。担当者が責任をもって自助努力すべき」などとしたらどうか。Aさんが遂行できるようになる確率は下がる。理由はかんたんで、Aさんにやる気があった場合、先輩が知識を伝達しないためAさんが必要な知識を得る機会がその分減るからだ。機会損失である。
このように考えて、先輩はAさんのやる気などとは関係なく、彼/彼女が必要な知識にアクセスできるよう環境を整えておくのがよいとおもう。人のやる気をコントロールするのは至難の技だが、機会損失を減らすことは工夫次第で十分可能だからだ。