masato日記

勉強ノート

「仲良し」になる努力はいらない

会社のコミュニケーションは表面的だという見方がある。 自分もそういうものだと長いあいだ思ってきてたのだけど、そうでもない気がしてきた。 仕事をしていると、本音と建て前を分けざるを得ない場合が普段よりも多くあるので、そこは上辺だけの対応になることはある。 だけど、そうだからといって、会社でのひととのやり取りが全体的にうすっぺらくなるというわけではない。

会社でのコミュニケーションの特徴として当然といえば当然なのだが、主な内容が仕事の話ということがある。仕事の内容の多くは、基本的に個人的な関心などから一定の距離がある。だから、そこに個人の私的な内容がはさまれることはない(だいたいそう思う)。そこには「深い」コミュニケーションに特徴的な「心の交流」がうまれるきっかけが欠けている。なぜならそのためには私的な情報のやり取りが欠かせないからだ、という感覚があった。

プライベートな場面では、ビジネスと比べて個人的な事柄を話すことがずっと多くなる。たとえば自分の趣味、生い立ち、家族、友達のことなど。でもしかし、これまでの経験からいえるのは、個人的な話をしたからといって、相手と親密になれるわけではないということだ。それでもなお、人と仲良くなるにはそういうプライベートな情報を交換しなければいけないという感覚は根強くあった。

順番が逆になっている。はじめに、こころを許せるようになってから、距離感の近いはなしができるようになる。よって、自分のことをたくさん話して、自己開示しまくれば人と仲良くなれるわけではない。あたりまえだ。

そうかんがえるようになって、無理に何かはなしをしようとすることが減った。朝、家を出るまえは「今日は何も話さないでいよう」とおもうこともある。しかし実際にそれでほんとうに一日中黙っていることはない。出社して、いつもの同僚と一緒にいると、なにかがこころに浮かぶので、それではなしをする。仕事の話を除けば、してもしなくてもいいようなはなしだ。とくに仲良くしようと頑張らなくてよいので、らくに話ができる。恐れずにいえば、仲良くなろうという努力は無駄だとおもう。だから、めんどうなときは全くだまっている。それで面倒なことになることはない。むしろ、周りの人にとってもそれで好都合だろう。こっちのほうがお互いハッピーだ。結果、無理っぽい人とも以外にうまくやれたりすることがあって、やはりそういった努力は捨ててよいのだという気になる。

話はそれるが、戦略的に自己開示をしてくる人がたまにいて、そのうちのいくらかはきっとプロ(それによって稼いでいるという意味で)なんだろうが、人為的に心理的距離を縮めようとしてくる。これがうまくいくのは、上に書いたような感覚につけこむと、錯覚する人がいるからだろう。 それは、ひとから親密な事柄をたくさん打ち明けられると、自分はその人と仲良しなのだと錯覚してしまう、ということだった。相手はそこを見込んであえてそうする。そんな場合はどことなくウソっぽい感じがするので、自分の感覚に忠実になるのがいいとおもう。かんたんに錯覚してしまう理性より、身体感覚はいつも正確だから。