masatoの日記

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カミュの『異邦人』を読み返してみた

新潮文庫の『異邦人』(窪田啓作訳)の巻末に、カミュが『異邦人』の英語版に寄せたという、この小説についての自序が載っている。

…母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣言されるおそれがあるという意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と心理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする心理は、存在することと、感じることとの心理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…

ムルソーは小説の主人公だ。ムルソーは、嘘をつかない。それゆえ、空気も読まない。いつも自身の感情、感覚に率直で、動物的な雰囲気さえするワイルドな男だ。小説は3回くらい通しで読んだが、たぶん、ムルソーが空気を読まずに正直発言をしすぎるがために、死刑判決を下されてしまい…というストーリーだったと思う。(付け加えると、ムルソーは殺人をおかして投獄される。小説はムルソーが獄中で死刑を待ち望む場面でおわる。)

冒頭のカミュの自序に戻ると、「嘘」についてするどい観察だなとおもった。とくに「嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ」という部分が。そして、「しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく」ということも踏まえている。

もしみながムルソーみたく自分に素直すぎる人間になったら社会はまわっていかない。協調性が無さ過ぎて集団生活ができないだろう。とはいえ、そういうスタイルには正直あこがれる。それは、嘘をつくのは必要とはいえ、つかれるからだ。思えば、日常の愚痴のけっこうな割合は、嘘をまわしていく苦労によるものとも考えることができる。

ムルソーの真似はできないけど、なるべく嘘は少なめでやっていけるといいなとおもいます。