masatoの日記

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マインドフルネスについて

仏教的なはなしをする。最近、本などでよく見聞きするようになった、「マインドフルネス」に関係している。

日常、苦痛を感じることはかならずある。人間関係から生まれるが、これは避けようのないことだ。自分が正しくても、相手が正しくても、みんな正しくてもそうなる。 しかし、私たちはこの事実に全然納得していないようである。また、そうしようという気配もない。なぜなら苦痛は撃退すべきものだからだ。実際、世界・社会を良くしようという働きは必要だし、正しいとおもう。(仏教が「抵抗するな」というとき、それは社会や他人がどうなってもかまわないという意味では決してない。)

が、個々人のこころの単位でみたとき、仏教的には苦痛に抵抗することはNGとされている。不快に抵抗すればするほどそれは増幅し、むしろ苦しみが増すのだ。

他方、わたしたちは抵抗しまくっている。苦しんだりするのは絶対にイヤなのだ。まあ、抵抗を抵抗と認識すらできず、反応的にそうしている面が強い。「快」を求めるコードにのっとられているからだ。そして、これは不快を忌避することとセットになっている。

…こんなふうに考えるようになったのは、マインドフルの本を2,3冊よんでからだ。それからけっこう経った。自分は不快には抵抗しないようにしよう、という意識があるつもりだった。

ところが、つい最近自分が「本気」で不快に抵抗していることに気づいた。真剣に、本当に、不快な感情に抵抗して退治しようとしてた。どうやら、あたまの理解はうわっつらだけだったらしい。

そう気づいたのは、「苦痛を完全に避けるのは不可能だ」ということをぼんやりと思っていたときだった。その直後、「でも自分は抵抗しているなあ…あれ?」という感を得た。これは、実に「マインドフルネス」な経験であった。