masatoの日記

やっていきます

「物事の結果の責任はすべて自分にある。他人・環境のせいにしてはいけない」という考え方に懐疑的である。 「いま生きている世界は自分がつくってきたもの、そのことをちゃんと受け止めなさい。このことから逃げるのは薄弱者である」という声が聞こえてきそうな感じがする。嫌だ。
(まあ、薄弱者な面があることは認めるとして)この考え方は、ものごとの多様で微妙な側面を暴力的になかったことにしてしまう。
この論法をつきつめると、現在に不満・生きにくさを抱えている人間は、すべて本人が悪いからだということになる。こういう考えが透けて見える人は「あなたのためを思って」というツラをしていることがある(いつかの記憶)。 他人を力で変化させようとしてくるひとびとは不穏な空気をまとっているものだが、そういう感じだ。
個人的にはむしろ、そんなふうに画一的に捉えても状況はよくならない。ほんとうに人のためをおもうのなら、ていねい状況・背景をふまえて、行動の指針をたてたい、という立場だ。

結果がとても重要なときには、事の背景を細かく考慮している余裕はないだろうから、結果の責任が(とりあえず)すべて自分にあると考えるのはアリだと思う。環境をコントロールできないとき、変えられるのは自分の範囲だけになるからだ。だから、自己責任論的な考え自体がいやだということではない。ただ、だれがその結果にこだわっており、だれがだれに責任を負わせようとしているか、は肝心な点だと思う。本人がどうでもよいと感じている何かに対して、他人がその責任を押しつけようとすると、不可解になる。(望まない仕事)

そういえば、一昔、危険地域に訪れテロの犠牲になった被害者に対して自己責任論がいわれていた。正直に言うと「まあ、危険と知っていて行ったのだからしょうがないかもしれない」と思った。ただ、奇妙だったのは、一部の人達はどうも怒っているらしかったことだ。「けしからん」みたいな感じで。亡くなってしまった人に対して、さらに追い打ちをかける非情さというか、世の中にはそういう厳しい人達もいるんだ、と感じた。

なにが言いたいのかわからない文章になってしまった。

とにかく、困るのはどんな場面でも自己責任論法で突き通してしまうことだ。これは、自分にも周りの人にも非常に有害になると思う。