masatoの日記

やっていきます

「正しさ」についてかんがえた

『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』という本を読んでいる。直球なタイトルだ。

どんな男がモテるか、というくだりで、「損得勘定と正しさ、どちらにこだわる男がいいですか?」という質問を宮台氏が学生にむけてしたことがあったそうだ。答えは全員が後者だったらしい。
思い出してみると、たしかに、かっこいい感じの人は「正しさ」っぽいものを持っている雰囲気がする。

それで思った。正しさとは何か?みんなが納得できるような「正しさ」がなくなったとされてからずいぶん経つ(「大きな物語の終焉」とか)。そして長い間、わたしは、みなに共通する正しさなど不可能なのだから、個人がおのおの「小さな正しさ」を持って生きればよいのだおもっていた。これはさたちにとって、第一に自分が生きやすくなるようにように正しさを最適化していくということだった。

だがそうすると、「正しさ」はとても小さくなり、その射程はごく限られてしまう。自分と、自分の価値観にごく近しい人だけだ。
これでは、ごく小さなあつまりのなかでさえ、他者と共存していくのに苦労するレベルとなる。

苦労するなあ、という実感を得たときに道はふたつある。

小ささを維持する道と、大きくしていく道だ。

小ささいままでいるとは、ある意味、他者との関わりから退却する道。わずらさしさを避け、快適さを維持するために、計算不可能性(=他者)を減らしていく。要は、「正しさ」を共有できない相手とは、意識して距離をとるようにする。近づきすぎると不快のもととなるからだ。対策としては、礼儀正しく、あたりさわりなく人と接するようにする。しかし、これはストレスがたまる。

正しさを拡大する道は、わたしにとって新しい感覚だ。自分の正しさの根拠を、自分の外に拡げていく。その正しさが、わたしにとってよいものであると同時に他者にとってもよいものであるような正しさを持つということ。おそらく、共感する力ともなる。本で説かれていたのは、こっちのほうの正しさだろう。

「正しさ」というとちょっとおおげに響くかもしれない。だがそれを振りかざし、他者をコントロール使用とするのでもない限り、自分一人でひっそりとできることだ。だから、さわがしくない。正しさを他者にとってもよきものであるように拡大していこうという意思は、穏健である。

以上のことを「性愛」の本をよんでおもった。そうではあるが結局、人を「正しさ」に向かわせるのは、モテたいという欲求によってではない、とおもう。それはもっとめんどくさくて、時間のかかることだと個人的にはおもっている。今より若い頃はもっとモテたい願望が強かったが、純粋に仮定のはなしとして、当時この本をよんでもさっぱり意味がわからなかっただろうし、別の効率的にみえる方法を探し求めただろう。いま、何かしらを感じ取れるようになったのは、年を取って(昔と比べれば)それなりに経験をしてきたということ以外にない気がする。ひとそれぞれ、たいへんな思いをしているなあ、というのはある程度ひとと関わっていかないとわからない。なんか、なりゆきを肯定しているだけかもしれないが。