masatoの日記

やっていきます

気分よく淡々とやっていきたい

人間はやはりできることしかできないから、できることだけやればいいだけの話
(落合陽一郎『超AI時代の生存戦略』)

これを読んで「なるほど、たしかに」と感じた。でもそう思うだけでは不十分だとも思った。あたまではわかっていながら、実践できないことに気づいたからだ。本当はわかってないということである。この言葉にはもっと奥があると思う。

「自分ができることをやればいいだけ」の理由

自分の能力を超えて頑張りすぎると、不機嫌になるのでよくない。無意味に態度が冷たくなったり、攻撃的になったりして、楽しくないし、なによりまわりに迷惑をかける。成長することよりも、機嫌良く過ごすことの方がずっと大切だ。「成長のための取り組み」は害にならない程度でやるべきだと思う。

しかしこれが難しい。

「自分に何ができるか」を正確に判断できない件

まず、自分で自分を判断するのはむずかしいのだ。感情や(あいまいな)記憶などを判断材料とするからだ。まあ、他に何もなければ、頼りにできるはそれくらいしかない。

そうして主観的に決めた「自分にできる何か」は不正確だ。しかも、簡単にブレる。たとえば、FacebookTwitter、その他SNSなどで、だれかの「キラキラ」を目にすると、「わたしも彼/彼女みたいにステキになりたい!」などとなってしまうものであり、もはやわたしが自分で決めた基準などは無力である。「キラキラ」に感染したわたしは、自分が持っていた基準を忘れてしまう。結果、「できることだけやればいい」という境地から遠く離れる。

「キラキラ」には気をつけている。それは、意図的に人にコンプレックスを感じさせ、その欠乏感を埋め合わせるために何かを買うように仕向ける「コンプレックスビジネス」である場合もあるし、そうでなくてもそれで取り乱すようであれば距離を置いた方がよい。なんにせよ、SNSドーパミン系な刺激にそそのかされると、頑張りすぎたりいろいろ過剰なのでよくない。結局、不機嫌になって環境を劣化させるだろう。

過去の自分と比べるという基準

無害で効果的なのは「過去の自分を超える」ことを目指すというやり方だと言われている。他人と比べるのではなく、自分と比べるのだ。そのためにすべきことは、未来の自分が参照できるように今の行動結果を記録することである。

とくに毎日なにかを続けるようにしていると、自分の変化がわかりやすくなるのでよいと思う。続けていれば、少しずつ上達していくものだ。自分の成長を確かに感じられると、そのことがよろこびになって、たとえそれが他人と比べて劣っていたとしても、劣等感はさして感じないことが多い。

昨日の、あるいは去年の自分を超えられるようにがんばる程度で十分なのではないか。