masatoの日記

やっていきます

Googleダンボール製のVRゴーグルを発売している。数千円でVRが体験できる。
落合陽一の『これからの世界をつくる仲間たちへ』では、このゴーグルは「貧者のVR」の象徴としてあらわれる。

「プラットフォーム に 飲み込ま れ た 人間 は もう 働か なく て いい から、 ダンボール を 頭 に つけ て 夢 でも 見 て いろ」   コンピュータ は、 そんな こと を 言う かも しれ ませ ん。
落合陽一. これからの世界をつくる仲間たちへ (Kindle の位置No.1398-1400). . Kindle 版.

「もう働かなくていい」のは、彼らの生産力がマイナスだからだ。AIがやったほうが、速いし、品質がよいのである。あまった人間をほっとくと危ないので、ガス抜きしてやる必要がある。それにうってつけなのがVRというわけだ。安価にコンテンツを供給できて、効果的にたのしませられる。

だから「貧者のVR」という表現は、つまらない現実を生きるしかない人間のための生命維持装置みたいな響きがする。VR以前であれば、現実逃避は現実世界の中でおこり、現実と何かしらの接点があった。でもコンテンツがコンピューターによって生成されるようになると、人はもう現実世界と接触する必要がなくなる。つまり突き詰めれば、他人と関係する必要がなくなり、自己完結的な世界でいきていけるようになるということだ。まるで映画『Matrix』のセルにつながれて仮想現実をみている人間のように。

もしそのVRがほんものの現実並みの複雑製を備えていたら、VRでもいいじゃんと一瞬思った。でも、それだと現実Aでうまくやれない人間は、別バージョンの現実でうまくやれる保証がない。だとすると、ガス抜きにならない。よって、治安維持装置としては欠陥なので、人間に都合の良い現実をみさせてあげるようなものにする必要がある。

だとしれば、やはり「貧者のVR」はざんねんだ。だれかに飼い慣らされている感じがよくない。