masatoの日記

やっていきます

ひとりの時間を過ごしてきたか/どう過ごしたいかについて

一人でいる時間を楽しく過ごしたいと思う。

どちらかといえば、一人でいる時間はしんどいときの方が多い。いつも嫌なわけではない。長時間人と過ごした後はひとりになれると、気持ちが休まる。人とずっと一緒にいすぎると自由がきかなくなってくる。だから一人っきりの時間が必要だ。 疲れている間は、休むことが最優先になるのでひとりが辛いということはない。疲れていると、誰かに会いたいとか、話したいとか思わないからかもしれない。

たが、それもだんだん飽きてくる。気力体力が回復してから半日もすれば手持ち無沙汰な感じがしてくる。ひとりで楽しめることをすればよいのだが、それがない。

そんなときにすることは限られている。楽しみがないときにする次善策的な行為、それは私の場合、勉強、仕事、考え事だ。どれも別に楽しくはない。いや、はっきり言って疲れるし、めんどい。なのになぜやるのかといえば、無為に過ごすよりはマシだからという一点に尽きる。

それでどうなるのだろう。勉強とか仕事とかは、やればそれなりに進むというのはある。仕方なくやってると効率はあまりよくないかもしれない。とにかくゼロよりはマシということだ。でも、そもそもの話、やりたいのは何か楽しめることだったわけで。それができてないのはすなわち、ひとりの時間の人生を楽しめないってことだ。

ひとは基本一人だ。だから、その時間を充実して過ごせるかどうかが、そのひとの人生の根幹に関わってくる―そんなことを自己啓発書で読み(自己啓発書をよく読むのだ)、そうに違いないと思った。人生の熟練者は、一人の時間を、孤独をたのしめるひとである、と。

別のところでは、「ひとりを楽しめる人となら、一緒になってもきっとうまくやっていける」という詩があった(作者は忘れてしまった)。それは、一人をたのしめる人同士だけが、一緒になったときに気持ちよく過ごせるということだったと思う。これも、まったくそのとおりだろうという気がして、自分もそんなひとりになりたいと思った。むかし友達関係をたのしめなかった自分が、この先を楽しく生きていく道はその方面しかないだろうと思いもある。

しかし、実際はなかなかそうはなれない。いつまでそうしているのだろうと思ったりもする。世間を見ていると、ひとりを楽しめるかどうかということは、年齢とは関係がないようだ。若くて孤独をたのしめるひとはいるし、孤独に耐えきれない年配者はいる。この違いがどこからくるのかよくわからない。たとえ、それを言ってみたところで何も変わらないという気もする。孤独について知りたければ、いろんな人がそれについて書いている。それだけ孤独との付き合い方に悩んでいる人がいるんだろう。よめば、いくらかスッキリするのかもしれない。読後は、以前よりひとりを健やかに過ごせるようになるのかもしれない。いくらかそういう本をよんだことのある自分は、気づかないうちに重荷を降ろせていたのかもしれない。それはいつも徐々にしか起こらない。

一人耐性のない人が、その耐性を身に着けてるのには、気の遠くなるようなエネルギーと時間がかかるような気がする。その過程で、なぜ自分だけこんな思いをしなければならないのかと思うことは、正直、たくさんある。ほかのひとが、ひとりを満喫している様子を目の当たりにすると、なぜ自分はあういうふうではないのかということがあたまをよぎり、その差が絶対的かつ埋められないものに感じられて、自分が致命的に劣った存在であるような気がしてくる。相手に悪気などあるわけもないし、自分のただの思い込みだとしても、それが自分にとっての「事実」になる。

そう思ってしまうことはあるけれど、自分と他者とはまったく別の存在だから、比べるのはそもそも意味がない。でもこれは理屈をもってして頭で理解しようとしてもむずかしくて、感情が納得してくれない。ここはそういうもんだと諦めるしかない。

いずれにせよ、いくら大変でも苦労してでも、ひとりをたのしめる術を身に着けていくしかないのだ。否が応でもひとりの時間はやってくるし、ひとりで楽しめるのは他者とたのしく付き合っていくための土台でもある。人生は、ひとりの時間、人と過ごす時間の両方だ。そのどちらもたのしいほうがいいに決まっている。

したがって、いま孤独でひとりを楽しめない人が自分のことを(たまに)みじめと感じるのは、やむを得ないことであっても、決して後ろめたいことではないと言いたい。やましいことなどない。あとはただ覚悟を決めてやっていけばいい。