masatoの日記

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Netflix、安心感、書くこと、暇つぶし

Netflixを2時間くらい見続けるという退廃的な行いをしている』と書いたのは1月7日のことだった。それからひと月以上がすぎ、いまは2月12日。まだNetflixを見ている。というか、それはいまでは欠かせない楽しみとなって生活に定着してしまった。毎日約2時間としてひと月だと60時間にもなる。60時間だ(!)。その時間をほかの生産的活動に充てていたなら、きっと少なからず違う人生を生きていただろう――そう思うほどの時間だ。

だが、「生産的活動」とは何なのか?

たとえば、毎日その時間を勉強に充てたとしよう。60時間もあれば、何か1つの分野で「初心者」から「初級者」に行けると思う。両者のあいだには大きな差があるのだから、たいしたことだ。しかし、かなり疲弊することにもなる。仕事の疲れを押しやって、そこにエネルギーを投入するのは並大抵のことではない。そこまでして努力するというのがそんなにエライのか?わたしはNOと思う。そんなことよりほどほどにたのしく過ごす方が大切に決まっている。それがわかっていたからNetflixを毎日見ているわけだ。

いや、勉強=生産的というのは視野が狭すぎる。そうじゃなくて、人と過ごす時間とういものがあるでしょう。なんか、友達と飲みに行ったりとか、イベントに参加して新しい人と交流したり、あたらしいことに触れてみたりとか、そういうあれこれ。そう、そんな時間の過ごし方だってあるんだけど、腰が重い自分にとって、そういう場にしょっちゅう出掛けるのは負担になる。たまに行くのはいいが、行き過ぎるのはつかれるから止したい。 そういうわけなので、やはりNetflixを見ている。

こんなわたしにとってNetflixは、いまや毎日をここちよく過ごすために欠かせない存在となった。生活インフラといってよいだろう。たのしいハッピーなドラマをとおして、社交生活の雰囲気のエキスみたいなものを提供してくれる。バーチャルだから無意味かというとそうでもなく、ある部分の社交欲求を満たしてくれて、心理的安全を感じることができる。画面で起こっている楽しい何かをみていると、たしかにそういう安心感が得られるのだ。

リアルで満たされない部分をネットで埋め合わせるというと自虐的すぎるだろうか。しかし特段そういうわけでもない。むかしから人々は同じような働きをテレビに期待していたはずだ。今の時代は、選択肢が増えて、テレビだけでなく、ネットドラマ・映画、電子書籍の漫画、YouTube、などから選べるようになっている。形態のバリエーションが増えただけで、やっていることはたぶんほとんど同じだろう。なら、テクノロジーとうまく付き合えばいいだけのことだ。選んでいるのがテレビではないだけだ。(やはり自虐的かもしれない。)

結局、リアル/バーチャルという対立は意味が無いと思う。両方とも存在しているものだし、双方が互いに影響を与えているのだ。ネットでたのしんで気分良く過ごせることが、リアルでの振る舞いを健康にしたり、リアルの充実がバーチャルな何かの創造力につながったりするはずだ。よって、どちらかが「正」であるという見方は適切ではない。

まあ、いまのところわたしは何も創造していないのだが。

さて、バーチャルな世界は安心して楽しめてよいのだが、それだけだと発散されえない何物かが蓄積されてくる。そういった負のエネルギーが自分の存在をあやしいものにしていく。(自分は、はたらいてネットして、日々命をすり減らしていくだけの存在なのか?)そんなときは、自分の存在を消さないためにブログに何か書いたりしている。また書くことが、自分をちょっとでも今と違うところへ運んでくれるかもしれないという期待がある。普段浮かんでは消える思考とか、あいまいな感覚とかを文字にすることで、何かわかることがあるんじゃないか。そうしたら、新しい何かが起こるかもしれないというような期待感。まあ、書いても全然何も変わらないかもしれないが、それでもいい。すくなくとも暇つぶしにはなるのだから。何もすることがないときにやる何かがあるというのは、すばらしいことだ。