masatoの日記

やっていきます

自分のなかの理想的な人物像として、困難なときでもおだやかにしていて、人の落ち度に寛容というものがある。つまり、心が広ーい人。

常に穏やかでいるというのは、仏の領域かと思う。いつも大仏様の顔をしているレベル。人の落ち度というのは、許せるところと、許しがたいところというのが人によって違っている。ピンポイントでどうしても我慢ならないという急所がありがちだ。そこを突かれるとどうしようもなく爆発することがある、という箇所。これを克服しようとするのは自由だが、個人的には悪手だと感じる。そういう超難関に執着しているより、もっとやりやすい課題に取り組んだ方がはかどるんじゃないか。

なにがいいたかったのかわからなくなった。現実は理想を裏切り続けるので、理想は理想としてとっておけばよい、と思ったんだった、たしか。裏切るというか、ズレるというか。どっちでも大丈夫じゃないか、というか。

自分は「成長」とか「克服」とかいう考えを遠ざけているところがある。そういうことばを使わなくても、生きていればそういうことは起こるので(起こしていかないと自分が困っちゃうので)、あえて言う必要もないという感覚。これらを言うと、雰囲気からゆるさが急速に失われると怖れている。ゆるさを言い換えれば、自由な空気、気持ちよく息が吸える環境。ということなので、これからも僕は「成長」とか「克服」とかあえて言うことはないだろうと思っている。

念のために付け加えておくと、そういう言葉が必要とされる場にいる方もいるのではと思っている。自分がそうではないというだけで。だから、ここでいいたかったのは、「そういう言葉は窮屈だから使用は控えめにしよう」という主張ではない。ただ、自分の嗜好という意味で言ってみたかった。