masatoの日記

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読書した『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』

この本のタイトルが示すのは、じゅうぶん経済的にゆたかでありながら、しあわせではない社会のことだ。2年ほど前、経済的にゆたかであるにもかかわらず、全然しあわせな感じがしないのはなぜなのか、ちょっとでも知れたらよいと思って買い求めた本。でも「なぜあなたがしあわせを感じられないのか」ということは書かれていなかったので、安直にそういう答えを求めていた僕は、よくわからなくなって途中で読むのをやめてしまった。

最近本を整理することがあって、この本を再発見した。10円そこらで売るのがもったいなかったので手元にのこした。途中から読みはじめた。よいことが書いてある。以降、第6章「よい暮らしを形成する7つの要素」からよいとおもった箇所をたくさん引用したい。

みんな「しあわせになりたい」とはよくいうが、そもそも「しあわせ」とは何かという問題がある。本書はそれをちゃんと定義する。それで、しあわせの土台には「よい暮らし」があるだろうということを言う。で、「よい暮らし」とは何か? それは、国や文化をとわずある程度普遍的だよね、といっていて、「基本的価値」とよび、7つ挙げていた。

基本的価値と私たちが定義するものは、よい暮らしのための単なる手段ではないし、そのための潜在能力でもない。よい暮らしそのものである。

基本的価値というのは、よい暮らしそれ自体、という点がおもしろかった。「何をよいと判断するかは人それぞれ」といってしまいがちななか、「これが人間のしあわせには必要なんだ!」と言っているのがよい。

次の引用は、「第6章 よい暮らしを形成する7つの要素」から「余暇の要素」。

現代では、余暇はくつろぎや休息と同義語のようになっている。だが古くは、余暇という概念は単に仕事を休むことではなく、それ自体が一つの特別な形の活動だった。この意味での余暇は、疲れをとったり英気を養ったりして何か別のことに備える手段としてではなく、それ自体をするものだったのである。哲学者のレオ・シュトラウスは友人のクルト・リーツラーに宛てた手紙のなかで、「精神を働かせることは、苦痛の多い労働ではなく、余暇を優雅に真剣に使うことである」と述べた。ぜひとも「余暇」をこの意味にとってほしい。

知っているのは手段としての余暇ばかりではと自問してしまう。

とはいえ、真剣さや努力が余暇の条件だというわけではない。大事なのは、外から強制されてやるのではない、ということである。この意味では、マルクスのいう「疎外されない労働」が近い。マルクスはこれを「生活を自由に表現すること、ひいては生活を楽しむこと」と定義している。

「疎外されない労働」という言い方おもしろい。

余暇が基本的価値の一つである理由は、はっきりしている。余暇のない人生、すなわちすべてのことが他の何かのためになされる人生は空しいからだ。そのような人生は常に準備のために費やされる人生であり、現実を生きることがない。ほんとうの意味で世界を見つめ広い視野に立って熟考できるのは、必要のくびきから解放された時だけであり、したがって余暇は、より深い思索、より豊かな文化の源泉だと言える。

「常に準備のために費やされる人生であり、現実を生きることがない」。よく言ってくれた。心当たりがありすぎ。