masatoの日記

やっていきます

今日の自由主義においては、個性を、あるいはよく言われるように自立性を高く評価し、他の資質はすべてそこから発するとみなす傾向がある。すでに触れたように、こうした傾向が、ロールズ、セン、ヌスバウムが目的を論じたがらない原因の一つとなっている。だが、このような姿勢は誤りではないか。自主自立は好ましいけれども、他に優先して好ましいわけではない(愛のために自立を犠牲にしても、ひどく馬鹿げているとは言えない。)倫理的配慮という広い視野を失った自主自立は、「無関心の自由」に堕落しかねない。そうなったらあらゆることが許され、一切の配慮がなされなくなるだろう。最近よく耳にする「価値選択」という表現は、この混乱の一つの表れである。正しく理解していれば、選択は価値に応じてなされるものだ。そうでないから、選択が恣意的になるのである。(『じゅうぶんに豊かで、貧しい社会』)

個人の選択の自由がふえてから、言動の結果を個人の責任に帰す見方が強まった。ふしあわせが自己責任になり、それを達成できないと自己不全感無がつのる。そこから逃れようとして、「価値選択」により人生を改善しようともくろむことになる。ほんとうに価値があるのは何かわからなくなってしまう。