masatoの日記

やっていきます

言葉がほしい。喋る時に、言葉が出てきてほしい。僕は喋ろうとすると、言葉がとぎれとぎれになるような気がする。周りの人は、よくもまあそんなにすらすらと言葉が出てくるものだと感心している。そういうのは、ある程度生まれつきの資質が関係するのだろうか。こんなことを思っているのは、流暢な方があたまがよく見えるからといった見てくれのことを気にしているからだ。でも見てくれもあるが、それだけでもない。そもそも、言葉がなければ意思疎通ができない。自分には何か言いたいことがあるような気がするのだが、言葉にならないので、本当はないのかもしれない。どっちなのか。それは言葉にならなかったらないということになるのか。もやもやする感じがあったら、それを理解したくなる。理解できてもできなくても、それがあるんだと言わなければいけない。表現されなければ、自分でもそんなことがあったのかどうか忘れ去って、感覚に埋没して、そんなものがあったのかということすら当たり前になって意識できなくなってくる。実際そういう風にして現在生きている。当たり前すぎると、それがなんであるのかがわからない。わからないので、言葉にできない。そもそも考えたりしないからだ。では、人と話をすれば、考えるのかもしれない。予想外のことを質問されれば、いやが応にも考えることになる。だから、一人の時間が長くなりすぎるのは考え方が固定化しがちで危険といえそう。

お金がほしいとちょっと思っている。でも実際お金が手に入ると、あんまり喜びを感じない。やったね、と思うけど、とくに興奮もなく、ほしいものをすぐに買うでもなく、まあ貯金しておこうくらいに思う。物欲は減った。昔が物欲がありすぎた。いまはけっこういいなと思っても、それなしでも十分生きていけるし、もしそれを買ったとしても生活そのものはあまり変わらないだろう思っている。だから、急いで手に入れる必要がない。衝動買いを抑えるために、書いたいものができたら「ほしいものリスト」に追加して、1ヶ月後、まだリストに残っていたら買ってよしにする、みたいなことがリストを作らずともできるようになっているのかもしれない。それは素晴らしいことだ。そういう風になったのは、訓練を積んだからではない。たまたま成り行きでそうなっている。昔もっと小さかった頃、僕はゲームが大好きで、すごくゲームが欲しかった。新作のドラクエが出たらプレイするのが待ち遠しくて、すぐに買いたかった。買ったらプレイしまくっていた。でも母親といったら、自分ではほしいとか言うくせに実際それを買ったらすぐに遊ぶでもなく、平気で数日間放置していたりして、子供の心には意味がわからなかった。いま、母親の心持ちというか期待感というのがわかるような気がしている。

お金に執着がない、というと嘘になる。金がないと困る。金欲しい。でも金が入ってもわりかし冷めている。それくらいでいいかもしれない。いちいち金で興奮していると疲れるわけで。アルコールに似ているのかもしれない。体に入れると気持ちい感じになる。実際は気持ちいいのかよくわからん。しょっちゅう飲んでいると気持ちいいに違いないという感じになる。しかし実際はしんどい。飲んだ翌日なんて、心身にダメージが残っている。そして、こういうことは飲んでいるときにはけして言わない。興が醒める。というか、酒を飲むのが悪いとことではなくて、飲み方に問題があるだけだ。楽しく、適量をたのしみましょう。これに尽きる。