masatoの日記

やっていきます

何者かになれなくても全く問題なかったことについて

きょうの昼休み、いつもの食堂でぼんやりと思っていた。「何者かになれないことが悲しくも残念でもなくなっているようだ」。東京は人が多くて、みんな頭が良さそうに見えて、実際同僚は優秀だし、自分の代わりが務まる人間はいくらでもいるという印象だ。そういう環境で、はじめは劣等感を強く感じていた。人と比較するたび、いちいちそのような感情を抱いていると、消耗が激しく、気分が落ち込む。衣食住が満ち足りていても、負の感情エネルギーによって心身が滅びてしまう。あきらかに持続不可能だ。不思議なもので、ある程度の期間そうやって暮らしていると、他人と自分を比較して落ち込むということが少なくなった。意識のちょっと深いところで比較して劣等感が生じているというのはあるのだが、表立ってそれで落ち込むのは減ってきた。自然とそうなっていくようだ。あえて理由をあげれば、別に自分が一番じゃなくても問題ない(+それは不可能である)、劣っていたとしても自分は自分で何も変わらないこと、か。言葉にすると軽いかもしれない。が、実際に生活して身をすり減らすことで体感として得られた感覚だ。わざわざしんどい目にあってまでそうする必要があるか?といえば、自分にはあった。変に優劣を気にしすぎる性格なので、そこらへんはなだめてやるほうが、この先暮らしていきやすいと思う。

はてなブログのトップページにこんなエントリーがあった。

www.oukakreuz.com

何者かになれなかったことについて淡々と書かれている。十分すぎるくらいに立派に見えるのだが、そういう人が淡々と何者にもなれなかったことについて書いていて、あちこちでいろんな人が何者かになることを欲望しているのだと感じる。結局、そうなれない人の方が多い。そこでルサンチマンを溜めてしまうと生き辛い。何者かになれなかったということは、ようは突出した何らかの能力を発揮できなかったということで、つまり比較競争に負けたわけだ。そこで劣等感を感じてしまうと、苦しいのは必然といえる。上のブログではこのことを「呪い」と呼んでいて、まさにぴったりの言葉だ。これを解くには、何者にもなれなくて全然もんだいないのだよ、ということを心から納得している必要があるんだろう。でもそれがむかしい。本や映画は、比較は必要ないと言ってくれる。でも、そこで納得できる人っているのか? 僕は本を読んでも心の芯までには響いてこなかった。本を読んで、これまでの価値が転倒した、ということはきっと一度もない。めんどくさくて大変だけど現実を生きる方が、自分を更新していくことになると思う。それで呪いがとければ十分やる価値はあるいえる。