masatoの日記

やっていきます

ニコルソン・ベイカー『中二階』を読む

新幹線の移動時間で読む本を求めて、名古屋駅ジュンク堂書店ニコルソン・ベイカーの『中二階』をみつけた。初めて読む作家の小説だった。どうでもいいささいな事柄の細部が、異様なほどに詳しく描写されているところが、くだらないし、おもしろくて、何も考えたくないときに読むにはぴったりだとおもって買った。

くだらないといったのは良い意味でだ。

だいたい小説の主人公の思考が延々と続いている。どうということない何かしらの細部に主人公の意識が向かうと、それについての思考がはじまる。人の意識はふだんこんな風にして一人語りをしているのだろう。そんな具合に主人公の意識のおしゃべりを聞くようにしてすらすらと読にすすめていける。このスタイルには名前がついていて、「意識の流れ」(stream of consiousness)と呼ぶらしい。これは、Wikipediaニコルソン・ベイカーのページに書いてあった。

注釈はやたらと長く、1ページ全部が注釈のこともよくある。

主人公がこれまでの人生で学んだ価値ある事柄の8つくらいをリストアップするくだりがあるのだが、「脳細胞が死ぬのは良いことだと気づいたこと」というのが最後にある。この理由は長い注釈によって説明されている。 曰く、

死滅するニューロンは、模倣をつかさどる神経細胞である。なまじ模倣がうまいと、目の前に広がる可能な選択肢のあまりの多さに、人は途方に暮れてしまう。しかし、脳が余分な容量を失い、それとともに小手先の器用さも失われ、アドリブを演ずる喜びも、本来は向いていないことにチャレンジする意欲も感じられなくなると、必然的に人は、自分の脳に本当に適した数少ないことに腰を据えて取り組まざるを得なくなる。それ以外のことに気を取られることは、もはや決してない――やりたくてもできないのだから。自分は天才でもなんでもないのだの気づくと、ふっと肩の力が抜けて楽になる。そしてあらためて周囲を見回したとき、幾何学や抽象の青白い光よりも、周囲のあるがままの景色のほうがずっといいことに気づくのだ。

脳細胞が死ぬのがなぜ良いことなのかわからずにいたが、この説明を読んでなるほどと理解した。とくに感心したのは、

幾何学や抽象の青白い光よりも、周囲のあるがままの景色のほうがずっといいことに気づくのだ。

という箇所だ。普段、そうかもしれないことやそうだったかもしれないことや、そうなるかもしれないことなど、あいまいかつ不確かなことを考えてばかりの自分は、はっとなった。賢しらぶった抽象的な何かよりも、物事そのままをかんたんに指し示す言葉の方がずっとずっと価値がある。それは非常にはっきりしているので、解釈に迷ったり、意味を見失うことがないという点で実にすぐれている。確実なものが見つかりにくい時勢にあって(?)、こうした確固たるものは数少ない安心材料だ。安心して生きたいのなら、抽象的なあれこれの言説にかまけていてはいけない。「周囲のあるがままの景色」をもう一度見直そうじゃないか。