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食事の席でパートナー選びについてお話をしたなかでの一言。
「本音を言って共通点が見つかるようであれば、うまくいくかもしれないけど、我慢して合わせようとするとぐちゃぐちゃになるよね」
心当たりがある…
まず、腹を割って意見を言える強さを養っていく必要があると感じた。
最近早起きしている パート2
早起きってなんか「道徳」の匂いがしませんか。説教臭いというか。小さいころ大人に推奨というか、半強制された経験があります。ここでは、たんに感想を書いているだけで、「早起きは正義」とかいうつもりはありません。念のため。
4日前に「最近早起きしている」ということを書きました。早起きっていい、という気持ちはまだ変わっていません。あのとき書けなかったことを、もう少し書き加えてみようと思います。
1.朝早いと夜ゆっくりできる
勉強したいこととか、集中してやったほうが捗ることなど、朝一人の時間にガーっとやります。割り込みがない、静かな朝はよく集中できます。
仕事が終わって疲れた身体でやるとハードなことでも朝ならできるようです。
2.一日を落ち着いて過ごせる
朝起きて、そのまま会社に行く生活のときは、自分の時間は帰宅後にしかありませんでした。帰宅後にやりたいことをやれる気力・体力があるかは、正直予想がつかないので、不安になってたんだと思います。今日もできるだろうか、疲れていてもやらねば、みたいな意識が無意識にあったんだろうと想像します。そういうふうに頑張り続けるのは、なかなかハードなものです。
でも、その日にやりたいことを朝にやり終えていると、あとはオマケの時間みたい。ゆとりをもって過ごせます。会社の時間をオマケなんていうと怒られそうですが。
午後2、3時になると、一日の7割方終わった感覚になります。もう少しで今日の仕事も終わりだ、という感じで、ちょっとだけ気持ちが明日に向かい始めます。(必死で納期に間に合わせないといけない仕事がある場合は焦ってます)
定時近くになると、明日も早起きするために早く帰ろうという意識になります。帰れる場合はそのままサクっと退社。
帰ったら好きにゆっくりして、早めに寝ます。
こうやって早起きのメリットを書いておくと、よいことあるかなー
昼間に一人でビール飲むのやめる
昼にビール飲むと、酔が冷めて平常に戻るまでのあいだ微妙に体調が悪くて、その間、人生を無駄使いしてる感がつよい。
二周り年齢が上くらいの方たちが、休日の昼間からビールをやってる、あのくつろいだ感をイメージしながらだったのだが、その境地にはまだ達していない。
「ノーマル」の境界がわからない
仕事中のできごと。隣の家の人から文句(?)を言われた。その時、会社の門の前でちょっとトラックを止めて作業をしていた。
「あなたの会社は、○○にあった近隣の人から評判が悪かったあの会社でしょう」
会社はその人のいう○○地区から引っ越してきた会社ではなかった。そのことを伝えたが、聞く耳を持ってもらえなかった。
その人は、私の言葉を信じられないというより、自分が信じていることを譲りたくないかのようにみえた。話し合いにならなそうだったので、相手の話に形だけの相づちを打ちながら、聞き役に徹した。そのときはクレーム対応の仕事は自分にはできそうにないとぼんやりと思い、とはいえ、相手をなにかしら嫌悪するでもなく、友好的な態度を努めて話を聞いていた。そうこうして3分くらい経ったか、話したいことが話せたからか、気持ちが落ち着いたようで、去ってくれた。結局、ただ話したかっただけなのかもしれない。
その方はちょっとクセのある人として知られているようだった。その時思ったのは、「でも、程度が極端というだけ」ということだった。自分のことをどれだけ正しいと思うか。だれでも自分が正しいと思いたいんじゃないか。だから、ついつい言い訳をしてしまうのだ。あまりに他人の意見に耳を傾けないことがイケナイのか。たしかに、程度というのは、無段階のようにみえて、ある線を越えると、それだけのために人からラベリングされる原因になるようだ。「隣の家の人」はそれを横断してしまっていた。一方、自分はその境界の手前にとどまっている。何をするとそれを越えてしまうのか、だいたいのところで把握していると思っている。でもこの境界、見えないし、人によって位置が違っている気がする。しかも、それは全然見当外れだっていうこともありそうだ。
常識は人や組織次第で変わるから、あまり頼りすぎないようにしようということをこの出来事があって思った。
らくだメソッドで割り算再入門した
「らくだメソッド」
「らくだメソッド」を2月から始めて、4か月目になりました。
これは、平井雷田さんが開発された学習法です。その中でぼくがやっているのは算数のプリントです。
問題は、かつて小学校でやったことと基本としては同じ(だとおもう)。
らくだメソッドでは、「できた」「できてない」をきわめて客観的に評価します。
基準は、1)目安の時間内にできたこと、2)ミスが3個以下であること、のふたつ。
はっきりしているから、自分で評価できます。
自分でおもいたって実行し(プリントをやる)、結果が見えて(採点)、評価(反省)する。
基準が人間の感情みたいにふらふら揺れることなくいつも同じなので、納得して評価を受け入れられます。
このことによって自主的な取り組みができるようになっていると感じます。
割り算っておとなならできるんじゃないの?
2桁とか3桁の割り算ですけど、大人ならできて当然みたいにおもっていました。
というか、できたからこそ小学校を卒業して高校に行ったりして、いま大人になってるわけで。っていう前提。
実は、割り算できてなかったかもしれないってことを隠ぺいしているわけです。
それで大人といわれる年齢(今年で32)になったいま、再び小学生がやる割り算に取り組む。
で、できない。
うすうす予感していましたが、現実に直面。
それでできなかったから、できるようになりたくて練習するようになりました。
するとできるようになっていった。
こういうすごくシンプルに段階を踏んで、「できない」状態から「できる」状態へ移行できた。
重要なのは、先生やら親やらの評価目線を気にせずに、ピュアな学習意欲でやっているということです。
これは自分がやりたいからやっていて、それで充実感をもてているということではないでしょうか。
算数って生活で使わないのでは?
と、おもったこともありました。
けど、算数が少しできるようになると、日常生活がなにかとスムーズに運ぶことが多いようなのです。
なんで?っていうところは、また考えてみたいとおもいます。
今日はここまで。
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なんで相手から責められると落ち込むのかとか考えてみる機会があった。
仮説はこうだ。
過去に責められた体験のあとに嫌な出来事が続いた。 それを繰り返していく中で、他人に責められること→良くないことが起こる、という短絡が起きた。 実はこの良くないことということに根拠はなく、たまたまその相手がそれを嫌っただけなのだが。 しかし、道徳とか常識とか良識とかあれこれ味付けがされると、わからなくなるものだ。 そして、責められるということは、何か自分に非があるからだという罪悪感を持つようになる。 こんな気持ちはしんどいので、責められないように言動を調整するよう動機づけが起こる。
そうしたらあとはどんどん学習が強化される 汗
と、妄想してすっきりしたようなしないような。ヒヤリ。