masatoの日記

やっていきます

20170808

久々に残業。クタクタになる。帰ってコーディングの続きを少しやった。帰宅途中のコンビニで買ったビールはそのまま冷蔵庫へ。夜遅くの飲酒は翌日に持ち越すから。
夜10時の駅前のコンビニは所在なさげな中年男性と仕事帰りのサラリーマンがいた。小さいこどもを連れたお母さんが歩道にいっしょになってしゃがんでなにかを指さしている。動物でもいたのだろうか。楽しそうだ。
最近、飲酒していない。体調がいいときはがんがん飲めるが、下り坂のときは飲まない。飲まなければ飲まないでやっていけるから問題ない。

無限ループを避けてwhileで正規表現マッチを試みる

正規表現にマッチする文字列をすべて取りだそうとしてwhileループを試みたとき、無限ループになってハマった。

   while ( $text =~ /$regex{$maker}{item}/sm ) { #無限ループ
        print "match\n";
            $parsed{ $+{pos} }{item_name}    = $+{item_name} // '';
}

解決策はシンプルで、gオプションを付ければよかった。

   while ( $text =~ /$regex{$maker}{item}/gsm ) {
        print "match\n";
            $parsed{ $+{pos} }{item_name}    = $+{item_name} // '';
}

20180807

有給。目がずきずきして昼まで寝る。台風が近づいてきて雨が強まってきた。食料がないが外にもいけず、食事を宅配してもらう。配達ありがとうございます。

散髪。勘違いしてて30分遅れた。後ろがたまたますいていたので切ってもらえてよかった。
美容室の近くにあるおいしい中華を教えてもらったので、そのまま向かって夕食。中村区役所駅ちかくの萬珍軒という店。卵とじラーメンと砂肝炒めを食べた。出てくるのがめっちゃ早い。中華料理というとカジュアルな感じのお店ばかり連想してしまうが、ここはこぎれいでオシャレな感じだった。そのせいか客の半分くらいは女性客だった。一人ご飯でも二人ご飯でも、そしてデートにも使えそうな店だ。

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20170806

昼前に起床。日課の勉強をする。
昼。スーパーで焼き魚を買って食す。その後、退屈、読書、昼寝。
夜目覚める。あさりの味噌汁をつくった。ひとり分の味噌汁に入れると具であふれる。半分酒蒸しにするとよい。つぎからそうしよう。
アイスを買いにコンビニまで歩く。満月。「死ぬまでにあと20回満月を見ることはあるだろうか」。今年、5回は見ている気がするので、だいたいあと3年で20回くらいみることになる。余裕でクリアだ。

『彼女の人生は間違いじゃない』を観てきた

さわやかな気持ちで観終われる映画だった。高良健吾が超イケメンだなあということと、彼女のむかしむかしの元カレみたいな人が残念な意味で中二病すぎることとか、福島の飲み屋ではたらく東京の女子大生の軽薄さとか、いろいろな感情がわいてきた作品だった。

彼女がなぜデリヘルを仕事に選んだのかは、わからなかった。とにかく、おとこのセックスに対する動機はみなおなじようにみえるが、女性のそれははかりしれないところがあるという感じ。
登場人物は、イケナイ感じの人びとと、イイ感じの人びとにだいたい別れてた。前者は、芯がなく刹那的で、終始独りよがり。安定した関係を他人ともてない。いい感じにみていられたのは、孤独をひきうけて、自分で立っていられる人。わけもわからず、衝動的に他人との距離を縮めようとして関係を破綻させてしまう人びとと、自分と相手とが別の人間だという深い自覚のうえで互いに関わりあう人びととの違いは大きい。

タイトルに『間違いじゃない』とあるけど、はじめから彼女の生き方にうしろめたい様子はなかった。だから、このタイトルには「ん?」という感じがする。デリヘル=うしろめたいものというイメージはあるから、それにつけて「間違いじゃない」というのはキャッチ―ではあるが。(まあ、べつにいいんだけど!)

彼女の人生は正しくすすむ気配でおわったからいい。それよりも、あの救いようのないくまみたいな、しょうもない元カレのほうが心配だ。あのままじゃ、ぜつぼうてきなアラフォーになるしかないんじゃないか。ホテルで拒まれたとき、無言でうなだれる彼はそのとき何をおもっていたのだろうか。ちゃんとしたおとなになれることを祈りたい。

ぼっちが自己表現についておもうこと

自分を人に向かって表現することは、人との関係をもつために必要なことですね。だがしかし、自分には自己を表現すると言うことに苦手意識がある。そんな私はとっくに30歳を越え、まもなく32になろうとしている。

ここでは、自己表現といっても幅広すぎるので、ざっくりと、自己表現=「自分という人間を他人に伝えること」程度の意味として、これについて考えてみたい。ちなみに、何が何でも表現すればよいとは思っているわけではない。普段表現することに苦手意識があって、もうちょっとくらい出した方がいいんじゃないか、と思われる人物がどうやって自己を表現できるようになるか、について興味がある。そもそも、なぜ自己表現がたいせつかとひと言でいえば、それによって他人との関係性が決まるからだ。で、自分をよく表現できれば、自分に合った関係性を他人と持つことができるという感覚を私はもっている。この前提のうえで、それについて考えたことをとりとめもなく書いてみる。

さて、自分が何者であるかということを伝えるには、たとえば、自分が大切にしていることとか、価値観とか、やりたいこととか、を言うという方法がある。これを本心から言えることが大切だとおもうんだけど、全然言えてない気がする。でも、自分にだって一応大切にしている価値観とか伝えられる何かを持ってるはず(相手にとって価値があるかはまったく別だけど)。まあ、そういうことにしておいて、それで、持ってるのに言えないのはなぜかっていうと、きっと、話は単純だ。それは、普段から言い慣れていないからだ。普段やってないことはいきなりやろうとしてもできないのだ。単純だけど、こう考えると表現できるようになるためには、普段からそれをどんどんやっていくことが大切ということになる。ひとつの方針としてこれはアリという気がする。

表現には様々な方法があって、自分の価値観を出すということは、必ずしも口に出して「私はこれを大切にしている」などと言うことではない。自分の感情やエネルギーをに外部に出すことはひろく表現とみなせるとおもう。この意味で、表現をしないというのは、表現するものを持たないというより、むしろ出てこようとするものを押さえ込んでいるということなのではないか。押さえ込んでしまう理由は人によっていろいろあるんだけど、でも、そこは沼なので深入りはやめておこう。(「原因」を分析することが行動につながる場合もあるかもしれないから否定できないけど、あくまでも個人的な感覚でいえば分析的思考から何かよいものが生まれてきたということはなかったので。)

では、抑圧するから表現できないのだとしたら、どうしたらいいのか? これは、とにかく、表現してしまえばいいのじゃないか?とおもう。好むと好まざるかとにかかわらず、いまの自分ができるところからはじめるしかないのだから。そう、まずは実行することが大切だとおもう。実行をつうじて表現していくということ。だれか有名な人も、世界が変わるのは、思考によってではなく、行動によってである、と言っていたよね。

行動ってなにかといえば、思ってることを文章を書くことでも、人に話すことでも、写真を撮ってSNSに投稿することだって、何だって自己表現になる。しかし実際問題として、何かを作ってみると、やっぱり最初は全然できない。で、その出来映えにがっかりすることが多い。世の中には同じ事をやるにしても、ずーっとずーっと上手な人がたくさんいるわけで、そういう人達と自分とをどうしても比べてしまうものだ。それで気落ちして、結局自分の表現を引っ込めてしまいがちなんだけど、でも、そもそもすぐれた表現者になることがはじめの目的ではなかったはずだ。そうではなく、いま自分を表現することに慣れていない人がまずやるのは、たとえ下手くそでみじめであってもその表現を外に出すことだ。それが文章であってもスピーチであってもダンスであっても。それが自分なわけで、逃げることはできない。みじめであっても、そんな自分と折り合いを付けてなんとかやっていくしかないし、今の限界のなかで自分に可能なことを提案するということやっていくことで、その先の自分の人生が生きやすくなっていくという希望がもてる。

会社の人が近く退職することになった。その人との間柄は、2年くらい入社が先の私が、一応先輩。職種が違うので一緒に仕事することはなかった。とはいえ、事務所は一緒だから互いが事務所に出勤しているときは顔を合わせていた。2歳年上で子供が一人いる家庭持ちの彼と独身の私。退職がきまったいま、もはや会社の人にさほど気を遣う必要もその義務もなく、彼と私の力関係が逆転しはじめた。なにが起こったかとかいうわけではない。それは、まもなく退職するということで、半分会社の人、半分ただの人間となった彼が、私と素で一対一になっているからだ。関係性が変わってきている。そういう状況にあっては、地の人間力がものを言うのだ。妻子持ちだし、年上だし、好青年な彼は、やはり人の器というようなもので私よりも上なのではないかと前から気づいていた。それでも、これまで私がきままに振る舞うのを許してくれていたのは、自分が単に(一応)先輩だったからかなとおもう。きっと先輩風をふかせてしまっていたのだろうなー。これから気をつけよう。これと似た機会はそんなにたくさんないかもしれんけど。