masatoの日記

やっていきます

時間が増えたら何をするのか

もし一日の時間が1時間増えたら何をする?ということを書いていた人がいた。そのことについて、自分だったらどうするか考えてみた。

まず、そのような世界を思い浮かべる。一日が25時間ある世界だ。時計は12.5時で一周する(?)。1時間が28.8°の間隔で刻まれている。
人間の体力は同じとする。活動量に見合った休憩時間が必要だ。

だとすると、単に一日が長くなっただけでは、活動量とアイドル時間がそれぞれ増えるだけなんじゃないかと思えてくる。仕事にしても、時間が増えれば、そのあいだに活動している人間はきっと増える。つまり、消費活動の量も増えるわけだ。そこでは、商売をする人間がでてくるだろう。だから、一日が長くなると、仕事の時間も総じて増えると予想する。

この仮定は、つまらない。単純に今の世界が引き延ばされただけだ。

そもそもの問いの立て方を変えよう。一日が24時間から25時間の世界に変わるのではなくて、世界は相変わらず24時間でまわるけど、自分の時間が今より1時間増えるとしたら何をするのか?というふうに。

さて、何をするのだろう。どうせなら普段やっていないことをその時間でもっとやってみたいと思う。

たとえば、新しい場所に行ってみるとか?仕事帰りに寄り道しやすくなるだろう。

待てよ。本当に自由になる時間が増えたらあたらしいことを始めるのだろうか。というのは、今それをやらないのは時間がないからではなくて、やりたくないから、という方が近いのだ。7時に退社して、寄り道しないのは、早く家に帰って一人でのんびりしていたいからだ。だから、時間が増えれば自然となにかし始めるというのは楽観的にすぎる。実際のところ、普段やっていないことをやりはじめるのは体力が必要で、一言でいえば、めんどくさいことなのだ。わたしはすぐにめんどくさくなってしまう人間だ。

しかし、きっと、たぶん、めんどくささの先にはあたらしい経験がまっている。ということにして、たとえめんどくさくても、やってみたらおもしろそうなことを探してみます。

苦手なことに向き合おうとすることについて思ったこと

ブログを書こうとするときに、ある程度自分が「わかっている」感覚をもてている題材を選ぼうとする。わからないことは、書けないと思っているから。そして、わかっているような感覚でわかる範囲で書くことになる。わからないことはネタにできない、と無意識に却下しているのだ。こうして書いた文章によって、その題材についての理解が深くなったりするから、それはそれでアリだとは思う。

だけど、「わかっている」と思えるコトというのは、得意分野であることが多くないか。意識的にそこを探っていこうという姿勢なら大いにけっこうという気がするが、苦手分野を避けた結果、得意分野に閉じこもっているだけになっていることが自分の場合は多い印象がある。というか、避けているとこと自体が意識から抜け落ちている。現状を打開する可能性が眠っている場所は、得意分野よりむしろ苦手分野という気がする。もっと苦手なことと向き合うことが大切といってよいのでは。

そうであるとして、では、苦手なことについて何を言えばよいのか?という難しさはある。「わたしはこれが嫌いです、ムリなんです」ってことばかり言ってても仕方ないけど、どうしてそうなっているのかということについて再考してみるのはタメになることかと思う。別にそれをブログに書かなくても言いわけだけど、書くとしてら「ちゃんと書かなくては」という縛りができるので、よりちゃんと考えるための強制力になりうるだろう。で、「これを人に言うのはヤバイ」と思ったとしても、他人にとっては実のところなんともないことなのかもしれない。実際、だれか他人が書いた文章をよんで「この人ヤバイこと書いてるなー」とおもったことは記憶にない。「この人、痛いなー」ならある。ブログに文章をあげることについての一番の恐れは自分が「痛く」なることである。まあ、それにしても、一瞬で忘れる程度なので、大して気にしなくてもいいかもしれない。そもそも、そんなにインパクトのあるネタをはなからもっていないので、こんなことは杞憂なんだけども。

話を聞いていました。こういうことをしゃべっていました。

 

まったく何不自由ない生活。彼女はいないし、金持ちじゃないし、他人と比べて誇るようなものもはなくても、生活していくことには困らない。とくに楽しくもないが、愚痴るほどつらくもない。欲は、そんなにある方ではないと思う。だから、なんとかなる範囲で生活することに不満はあまりない。まったくないといえば違う。もっとモテたいし、ちやほやされたいし、将来は家庭だって持ちたい。だけど、ダメならそれでもいいという気もする。本当にそれを望んでいるのかはちょっと自信がない。

やりたいことは、特にない。だが何もしないわけにはいかないので、ベストと思えるものをするようにしている。それなりに真剣に考えて決めているつもりだ。実現するための方法も考えている。だが、それが絶対やりたいというわけでもない。とはいえ他人には、一応、それがやりたいのだ、というふうに振る舞うことにしている。「これじゃなくてもいいんですが、これしか思い当たらなかったので」というやつは馬鹿正直というのだ。大人は、こういうことを口に出さずに胸にしまっておく。みんなが本当のことをいい始めたら話の収拾が付かなくなるだろう。だから、うまくいくような案配に自然となっているのだ。

他方で、使命に向かって生きている人達がいる。心が読めるわけではないので、あくまでもそう見えるということだ。彼らは、まったく別世界の人達にみえる。何が彼らを動機付けているのだろうか? だが、よくわからない。経験のベースが違うのかもしれない。それとも、自分に真剣さが足りていないのか。欠落を感じながらも、人は人自分は自分でよいというのが持論なので、そこで考えをやめる。割り切ってしまえば、どうとだって生きていけるのだ。

そうとはいえ、欠落感が尾を引いているのだった。まっとうな人間なら使命をもっているべきだということは信じているらしい。生きる理由とは、その使命のことをいうのであり、人は生きる理由を持っているべきなのだ。ないのなら見つけ出さなければならない。

なめているのか?ずいぶんとぬるいことを言っている気がする。ぬるいのは楽だ。ほどほどの調子でなあなあに物事が流れていく。

 

すごい人と一緒にいると、自分まですごくなったような気になることがある。一夜明けて、ひとり素面の部屋で、感じる落差、欠落はなんだ。どうして自分はああいうふうじゃないんだろう?

自分を超越したい。しかし、思うだけで、具体的な方策が浮かぶもなし、行動するにも何を?という感じで、私はムニョムニョしているだけだ。やがて、スネたり、嫉妬したりで、不穏になってくる。

 目線を変えよう。彼/彼女が今すごいのは、地道な過去があったからだ、と。しっかりと自律している人の、これまでに想いを馳せてみる。そのとき、尊敬の念をおぼえる。

 そうしたら、人との関わり方のあたらしい次元。卑屈、軽蔑、隷属、媚び、などとは無縁だ。

 

昼前に起床。三連休はずっとこんな感じ。寒くなってきて、ふとんの時間が長くなった。この三連休はずっと晴れていて、雨ばかりの先週からすると、すばらしい天気だった。天気が良い日は、どこか自然のきれいな場所にいきたい。いつもそう思うけど、昼前に起きるとそれも難しい。往復の移動時間を考えると、目的地に着いて早々、日が暮れて寒くなってくるという具合になってしまう。遠くに行きたいなら朝出発した方が良い。だけど、朝は起きれない。

このやりとりはもやルーチン化している。   

だが、自然を楽しむことは、なにも遠くに行かなくてもできる。そのためには、まず部屋の外に出ることだ。外に出れば、季節が感じられる。陽差しの感じ、街路樹の葉の色合い、空気の冷たさとか。今日、買い物で駅まで歩いて行くときそれを感じた。

なんとなくパソコンをいじっていた流れで4年前の日記を読むことになった。エバーノートに2013年10月23日に書いた当時の悩みについての考察だった。

一読して、4年前は、今よりよっぽど人生について深く考えていたのではないか、という気がしてしまった。

昔の方が圧倒的に文章のエネルギーが濃かったからだ。

悩みの深さが、強い負のエネルギーを生んで、高エネルギーな状態になっていたのかもしれない。

今は昔ほど悩んでないし、多くの場合はフラットな気持ちで文章を書いている。

どうも私は感情が伝わってくる文章にひかれるらしい。

悩みが多かった当時に戻りたくはないが、読む分には感情が伝わってくる悩み多き頃の文章の方がおもしろかった。

読んでいてこころが動くほうが楽しいからだと思う。

これは、ちょっと皮肉な感じだ。

あれから、自分なりに(それなりに)精一杯やってきて、少しは賢くなったつもりでいたのだが、昔の自分が書いた文章の方がよいと感じてしまった。

あの頃よりましな自分になったというのは、錯覚だったのか?

うーん、そこまで思うのは大げさだろう。

それに、感情が動けばよいというものでもない。

それに、ちょっとの文章だけじゃ人となりはわからないだろうし。。

以上、昔の日記をよんでみた感想でした。

ブログを書くということについて

ブログってなんで書くのってときどき思います。

これまで断続的に半年ほどブログを続けてきました。基本的に書いてすっきりできればうれしいという記事で、一部を除いて日記みたいなのが多いです。良し悪しは別として、自己満足のためが大きいです。これは紙のノートに日記を書いていてもおそらく得られないでしょう。

なぜなら「ブログは他人がよむもの」だから。というか、読まれる可能性があります。

つまり、ブログを書くことは、自分の考えをパブリックにするということです。だれが読むかはわからないけど、読まれる可能性が開かれている状態になるからです。

そういう前提なので、ノートに書くときにはない緊張感があります。ここにノート日記とブログとの大きな違いがある気がします。

ブログをはじめた頃は、「こんなこと書くのはずかしい」という思いが強かったです。「自分程度の分際が、世間に向けて書くことがなにかあるのか?」という感じで、とっても委縮していました。自意識過剰ですね。でも、ちょっとやってみるだけで、世間の人は全然自分のことを気にしていないということがわかります。まあ、当たり前なんですが、自分だってそんなに他人のことを気にかけていないわけで。実際にブログを書いてみて実感できることです。

書いた文章は読み手に何かしらの印象を与えます。

自分の意見をはっきりと書いてしまえば、かならずそれを好ましく感じる人とそうでない人がいます。嫌われることを恐れていると、自分が本当に感じていることや思っていることは書けません。恐れすぎると、だれにたいしても耳当たりのいいような内容に加工していかざるをえなくなります(そんなものが実際にあるのかはわかりませんが)。しかしそれでは、自分が満足するための日記としては失格です。他人に気を遣いながら文章を書くなんて労働です。自分の時間を使って書いているブログで労働する理由はありません。

こういうふうに感じるので、僕にとってたのしくブログを書くということは、まず、いかにして世間と自分との折り合いをつけるという作業でもあるわけです。自分のポジション(立ち位置)をはっきりさせる、ということもできます。

これはたとえば、意識的、無意識的の両方で「これを書いても大丈夫なのか」と自問自答する、ということです。

そして、これを続けていくと、重荷がおりたような感覚になることがあります。このことから、個人的にブログには治癒的な一面があると感じます。ブログを書くことで自分の立ち位置が(自分のなかで)きまってくるから、なのかもしれません。