masatoの日記

やっていきます

S&B赤缶シーチキンカレー

晩ご飯に食べたいものが思い浮かばなかったので、きょうもカレーを作った。このカレーは、S&Bの赤缶でつくる。こいつはスパイスだけしかはいってない。とろみをつけるための小麦などが無配合なので、お湯に溶かしても一般的なカレールーのときみたいにとろみがつかない。スープカレーみたいな感じだ。

また脂も入ってないから、スパイスと野菜だけだと旨味がたりない。そこでだしパックをつかってやるとよい。みそしるとかをつくる出しパックをスープ状態のカレーに入れてグツグツする。かつお・こんぶだしとS&B赤缶カレースパイスは相性がよいみたいだ。

じゃがいも、ピーマン、なす、にんじんなど、適当なカレー向きの野菜を切って、炒めて、煮てやれば、すぐにうまいカレーが出来上がる。缶シーチキンを放り込めば、シーチキンカレーになる。とても簡単なので気に入っている。

自炊がよいと思うのは、外食や買い食いより、簡単かつおいしいものが作れたときだ。このカレーはその基準を満たしている。低予算で材料がそろい、難しいことなく調理できるから、楽にやりたいときにちょうどいい。まさにひとり暮らし向きのレシピといえる。

ひとりじゃない場合、3日連続でほとんど同じ具材のカレーを作ったら、相手の機嫌をそこねかねない。逆にいうと、ひとりっていうのは、自分さえご機嫌であれば何をなんにち連続で食べ続けてもOKな状態のことである。これはひとり暮らしの特権のひとつに違いないと思う。

しかし良い面ばかりではない。第一に同じレシピに偏りがちになる。そのため新しい料理を全然おぼえない。いつまでも似たり寄ったりの食事を続けるということだ。これはかならずしも悪いことではないが、まだ知らないおいしい料理をあじわうチャンスを失っている。自分がそうであるように、よほどの料理好きでない限り、だれに食べさせるでもないのに積極的にあたらしいレシピを開拓しようという気にならないだろう。ひとりの安楽さと引き換えに失っているものもあるのだ。

気がついた。どこまでも安楽であるとは、外部がないということである。

自分=内部ばかり。それは、未知の物=新しい物=外部の不在である。これでよいのだろうか・・・。

一応、無理矢理にでもあたらしい経験をする方法がないかと考えてみよう。カレーの話をしているので、あたらしいカレーといかに出会うか?というのはどうか。であれば、ふだん使わないカレールーや具材を無理矢理入れてみる、というのはアリかもしれない。

しかしたぶんやらないだろうな。だっておいしいってわかってるものを作った方が安心だから。わたしは新し物好きではないのだ。こうしてわたしは身近な範囲で生きていく。

最後にレシピをのせておく。

S&B赤缶シーチキンカレーの材料

・S&B赤缶カレースパイス
・シーチキン缶
・お好みの野菜(にんじん、たまねぎ、なす、じゃがいも、ピーマン…)
・だしパック

↑のカレースパイスは業務用食料品店にいけば売ってる。小さめのスーパーだとたいてい売っていない。1000円以上したと思う!

ルビーベルグ。チェリーの爽やかな酸味とちょうどよい甘みが感じられてうまい。100円台でコスパ高い。輸入チェリービールは高い。

成分表見る限りでは、ヤバ気な人工甘味料不使用。そのせいか自然な甘みと感じる。アルコール度数4%。 サッポロビールがつくってる。所在地は東京都恵比寿。サッポロだけど、東京都恵比寿。エビスビールのイメージが強くて北海道だって忘れてた。
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あした読書会に行ってくる。お題は千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』。「勉強」+「哲学」だって。すごい賢そう。しかも「来るべきバカ」ってどういう意味なんだよ、と興味をそそられるタイトル。この本は、たしか去年の9月に買って読んだ。

「勉強ってそもそも何することなの」―ということを再定義してくれている。目次からキーワードっぽいものをかいつまんでみると、それはたとえば

勉強とは、自己破壊である

自由になる、可能性の余地を開く

とかある。

勉強すると自由になれるかもしれないんだ。今の自分を乗り越えられるかもしれない。とか思っちゃう人はワクワクするような見出しが続いている。

「勉強」が「自由」に向かっているという観念はおなじみになってると思う。だが、本書がこのように言うときは、それは一般的な意味とは異なる意味合いでだ。ふつう勉強するというと、今の自分に知識とか能力とかを付け加えるというイメージが強い。仕事がもっとできるようになるために勉強するとか。でも、「自己破壊のための勉強」は方向が逆らしい。それは、いまの自分ではいられなくなるような勉強なのだという。

そんなこと、ほんとうにできるのかよと思うけど、この本を読むとできそうな気になれるので好きだ。

好きな人は勉強って大好きだ。それとは逆に、勉強なんて不要というスタイルもある。勉強してなさそうで楽しそうにしているヤツはいい。勉強頑張りすぎて苦いかおしているより断然いい。苦しい勉強というのがありふれているから、勉強についてはふくざつな気持ちがある。人によって「勉強」の意味するところも違う。それは自明ではない。というわけで読書会では、本について他の人がどういうことを思っているのかが聞けるのでたのしみだ。

伝えるための文章力がほしい。 仕事してるときは、言いたいことが伝わる文章が書けた方がスムーズにことが運ぶっていうのは本当。それでもって、なるべくサッと書けるといいのだけど、これは難しい。時間がかかりすぎると、電話でよいのでは、分かりやすく書くのはほどほどにしてとにかく書け、ということになってしまう。

ほんで、それの何がいいのってことだけど、早く仕事が終わると、体力に余裕ができるし、時間もあまるし、それは自由時間が増えるということだ。その時間に、だらだらしたり、インターネットしたり、うまいもの食べに行ったりとかできて、生活を充実させるような活動ができる。

文章力は、こういう流れができる余地を生むためのひとつの何かだ。

でも文章はなかなか急に上達しない。ちまちまと書き続けて量をこなすしかないのではないかという気がする。ブログを書く理由のひとつは、なんでもいいから文章を書くことを生活の一部にするっていうことに自分ではなってる。書かないよりかは書いた方がマシだということ。ほんとうは、人に分かりやすく書くようにしたほうが、文章の練習という意味ではよいけど、もっとゆるくてもOKということにしている。だから、1行だけのブログでもOK。それじゃTwitterみたいな長さなんだけど、Twitterとは言えることが違うので、長さの問題ではない。

そして、文章力というのは人によって大きな差がある。上手な人はめっちゃうまい。そういう人の文章は、「この人には自分には見えていない何かが見えている」という感じがしていて、素敵オーラがただよう。ふつうの人のやつは、読めばいいたいことはわかる。で、うまい人はすらすら書いているようにみえるが、普通レベルの人がまねしようとしてもできない。両者のあいだには見えない壁がある。さっきも言ったように、その壁はひょいと超えられるようなものではない。だが、超えることが不可能なわけでもない。なにも文豪になる必要はまったくない。

どのみち仕事はしなくてはいけないので、どうせならテキパキと終えられるように、伝わる文章を書けるようになりたいという話。

「できること」が善か、について。

善であると同時にそうでもない。その両面がいつもあるんだと。

「できる」っていうのは、つまり思い通りにことが運ぶということ。 それは、仕事が捗るとか、期待していた成果があがるということでまさに喜び。それはそうだが、問題はつねにそうは事がはこばないという点にある。

そうだから「できる」ことが絶対善という価値観だと、できてない場合に苦しい。

どれだけ苦しいかは、「できる」ことへの執着の強さによる。

その意味では、向上心とはあればよいというものでもない。

とはいえ「できなくてOK」とはばかり言ってもいられないのも確かだ。

いつもできないのでは、まさにやっていけなくなってしまう。

バランスが求められる。

そこで、「できる」と「できない」の両面性を受け入れるということに価値が出てくると思う。

「できない」ことが絶対悪だと、常にしんどい。

なぜなら、何かに対する自分の能力は、訓練次第で一定レベルまで向上できるが、それにつれて目標の難易度も上がるから、できないことはいつまでもなくならないからだ。神とか、天才とか、秀才とかが世の中には存在すれど、それは人間の可能性がそれだけ大きいということではあっても、自分もそうなれるとか、そうであるべきだということとは全く別である。

そのことをすぐに忘れる。

そしてまた思い出して、を繰り返すのがある意味で大人への階段。

ほどほどにやっていこう。