masatoの日記

やっていきます

日曜日

いつもより少し早めに起きて、ぐだぐだしたあと、コンビニまでアイスコーヒーを買いに自転車ででかけた。今日は素晴らしくよい天気だった。5月らしい気持ちいい空気感で、なんだか気分がはれやかになった。

帰って用事をこなしたあと、買い物に出かけた。前から買おうとしていたヘッドフォンが安く売ってるのを見つけたのだった。30分くらいで店までいける距離だったので行ってきた。中古品だけど、かなり割安で入手できてよかった。こいつはノイズキャンセリングヘッドフォンでSONYのグレードのいいやつだ。装着すると周囲の音がグンと減る。周りの人の話し声はきこえるけど、何を言っているのか聞き取れなくなる。環境音がなくなりすぎると危ない、という場合はあえて多少の音を取り込む設定もできて使いよさそう。

「可能性」の言い換え

NetflixでMaster of None(何一つマスターしているものはない=何者でもない)見てて、なるほどと思わされたセリフが「20代のころは先がよく見えなかったけど、今30歳を過ぎて見えるようになってしまった」というもの。2年間いい感じで付き合ってきて同棲もしている彼女と結婚できるかどうかを自問する場面で、将来がなんとなく描けてしまうがゆえに、このまま彼女と一緒になることが良いことだと確信がもてない主人公が言う。 

このセリフは、「可能性は若い頃には満ちていて、歳をとるにつれ減っていく」という定型句のウラだなと思った。可能性に満ちているということを逆さにすると、将来がみえない、になる。どの可能性を選択するかによって将来が変化するからだ。そして、可能性が減っていくということは、選択肢が少ないがために変化の予想が立てられる、という意味になる。

言葉の違いで印象が変わる。「可能性」を主語にすると、「満ちている」ことが良きことで「少ない」が悪しきことに傾いてみえる。可能性はたくさんある方がいい気がしてしまうのだ。他方、「先行き」を主語にしたほうがどちらか一方が良くて反対側が悪いという偏りが少なくてニュートラルな感じになる。「先行き」が見えないことは必ずしも喜ばしいことではないけど、同時に悪いことだとも断言できない・・・はずだ。ニュースなどで「先行きが不透明」というとネガになるわけだけど、好転する可能性を全否定しているわけでもない気がする。 

だから、「若い頃は可能性に満ちていて、歳をとるとともにできることは少なくなっていく」的なことを言いたくなったら、「可能性」を「先行き」に言い換えた方がより自己肯定的な言い方をしよう。そっちのほうが楽になれるとおもった。

写真

スマホで撮った写真、位置情報が入っててどこで撮ったのかGoogle Mapで詳しくわかる。過去のあのとき撮ったなーと思い起こせる。あれこれ活動してきたのだということが量として感じられる。時が過ぎるの早いね、といいつつもあれこれやっているのだなとわかって、時間は確かに存在した。たくさん写真があると思いでの引き出しがたくさんあるようだ。僕は2,3年くらい前とか割と最近の写真しかない。5年、10年前の写真があったなら、脳内タイムトラベルできるときの幅が増えていいな。写真撮っていきたい。

何者かになれなくても全く問題なかったことについて

きょうの昼休み、いつもの食堂でぼんやりと思っていた。「何者かになれないことが悲しくも残念でもなくなっているようだ」。東京は人が多くて、みんな頭が良さそうに見えて、実際同僚は優秀だし、自分の代わりが務まる人間はいくらでもいるという印象だ。そういう環境で、はじめは劣等感を強く感じていた。人と比較するたび、いちいちそのような感情を抱いていると、消耗が激しく、気分が落ち込む。衣食住が満ち足りていても、負の感情エネルギーによって心身が滅びてしまう。あきらかに持続不可能だ。不思議なもので、ある程度の期間そうやって暮らしていると、他人と自分を比較して落ち込むということが少なくなった。意識のちょっと深いところで比較して劣等感が生じているというのはあるのだが、表立ってそれで落ち込むのは減ってきた。自然とそうなっていくようだ。あえて理由をあげれば、別に自分が一番じゃなくても問題ない(+それは不可能である)、劣っていたとしても自分は自分で何も変わらないこと、か。言葉にすると軽いかもしれない。が、実際に生活して身をすり減らすことで体感として得られた感覚だ。わざわざしんどい目にあってまでそうする必要があるか?といえば、自分にはあった。変に優劣を気にしすぎる性格なので、そこらへんはなだめてやるほうが、この先暮らしていきやすいと思う。

はてなブログのトップページにこんなエントリーがあった。

www.oukakreuz.com

何者かになれなかったことについて淡々と書かれている。十分すぎるくらいに立派に見えるのだが、そういう人が淡々と何者にもなれなかったことについて書いていて、あちこちでいろんな人が何者かになることを欲望しているのだと感じる。結局、そうなれない人の方が多い。そこでルサンチマンを溜めてしまうと生き辛い。何者かになれなかったということは、ようは突出した何らかの能力を発揮できなかったということで、つまり比較競争に負けたわけだ。そこで劣等感を感じてしまうと、苦しいのは必然といえる。上のブログではこのことを「呪い」と呼んでいて、まさにぴったりの言葉だ。これを解くには、何者にもなれなくて全然もんだいないのだよ、ということを心から納得している必要があるんだろう。でもそれがむかしい。本や映画は、比較は必要ないと言ってくれる。でも、そこで納得できる人っているのか? 僕は本を読んでも心の芯までには響いてこなかった。本を読んで、これまでの価値が転倒した、ということはきっと一度もない。めんどくさくて大変だけど現実を生きる方が、自分を更新していくことになると思う。それで呪いがとければ十分やる価値はあるいえる。

言葉がほしい。喋る時に、言葉が出てきてほしい。僕は喋ろうとすると、言葉がとぎれとぎれになるような気がする。周りの人は、よくもまあそんなにすらすらと言葉が出てくるものだと感心している。そういうのは、ある程度生まれつきの資質が関係するのだろうか。こんなことを思っているのは、流暢な方があたまがよく見えるからといった見てくれのことを気にしているからだ。でも見てくれもあるが、それだけでもない。そもそも、言葉がなければ意思疎通ができない。自分には何か言いたいことがあるような気がするのだが、言葉にならないので、本当はないのかもしれない。どっちなのか。それは言葉にならなかったらないということになるのか。もやもやする感じがあったら、それを理解したくなる。理解できてもできなくても、それがあるんだと言わなければいけない。表現されなければ、自分でもそんなことがあったのかどうか忘れ去って、感覚に埋没して、そんなものがあったのかということすら当たり前になって意識できなくなってくる。実際そういう風にして現在生きている。当たり前すぎると、それがなんであるのかがわからない。わからないので、言葉にできない。そもそも考えたりしないからだ。では、人と話をすれば、考えるのかもしれない。予想外のことを質問されれば、いやが応にも考えることになる。だから、一人の時間が長くなりすぎるのは考え方が固定化しがちで危険といえそう。

お金がほしいとちょっと思っている。でも実際お金が手に入ると、あんまり喜びを感じない。やったね、と思うけど、とくに興奮もなく、ほしいものをすぐに買うでもなく、まあ貯金しておこうくらいに思う。物欲は減った。昔が物欲がありすぎた。いまはけっこういいなと思っても、それなしでも十分生きていけるし、もしそれを買ったとしても生活そのものはあまり変わらないだろう思っている。だから、急いで手に入れる必要がない。衝動買いを抑えるために、書いたいものができたら「ほしいものリスト」に追加して、1ヶ月後、まだリストに残っていたら買ってよしにする、みたいなことがリストを作らずともできるようになっているのかもしれない。それは素晴らしいことだ。そういう風になったのは、訓練を積んだからではない。たまたま成り行きでそうなっている。昔もっと小さかった頃、僕はゲームが大好きで、すごくゲームが欲しかった。新作のドラクエが出たらプレイするのが待ち遠しくて、すぐに買いたかった。買ったらプレイしまくっていた。でも母親といったら、自分ではほしいとか言うくせに実際それを買ったらすぐに遊ぶでもなく、平気で数日間放置していたりして、子供の心には意味がわからなかった。いま、母親の心持ちというか期待感というのがわかるような気がしている。

お金に執着がない、というと嘘になる。金がないと困る。金欲しい。でも金が入ってもわりかし冷めている。それくらいでいいかもしれない。いちいち金で興奮していると疲れるわけで。アルコールに似ているのかもしれない。体に入れると気持ちい感じになる。実際は気持ちいいのかよくわからん。しょっちゅう飲んでいると気持ちいいに違いないという感じになる。しかし実際はしんどい。飲んだ翌日なんて、心身にダメージが残っている。そして、こういうことは飲んでいるときにはけして言わない。興が醒める。というか、酒を飲むのが悪いとことではなくて、飲み方に問題があるだけだ。楽しく、適量をたのしみましょう。これに尽きる。

火曜日

焼き鳥屋に行った。サイドメニューには、もやしとゴーヤの和え物、冷やしトマトなど。焼き鳥は、つくね、かわ、カモのねぎま等。ひさしぶりに飲酒して酔いが回っている。アルコールは習慣的に摂取していると耐性がつく。逆も然りで、弱くなっているようだ。 

何か写真を撮るんだった。写真があるとそのときをあとで思い出せる。今持ってるHUAWEIスマホP10 Liteはカメラを起動して撮影できるようになるまで10秒くらいかかって使い物にならない。ウイルスソフトをいれたらそうなった。入れる前は2、3秒で起動していたと思うが。なんにせよこんなではカメラが使えない。買い換えたいが、予算的にスマホの優先度が低いのでこのまま使い続けるだろう。 

あすは水曜日だ。その次が木曜で金曜、土曜とつづく。早い。

疲れると、私は疲れまいとして抵抗する。あるいは、疲れをなかったことにするように気力、理性で補おうとする。そういう頑張り癖が根強くある。あるものをないものとするところにそもそも無理がある。だが無理なことを無理だとみきわめるのは簡単ではない。精神力の神秘性によって人は無限の力を有しているのだというイメージがあって、正しく頑張ればなんとかなるのだという可能性は、意味がわからないまま常にあるようだ。しかし現実そんなことはない。疲れた場合に、疲れを取るには休むしかない。また、気分が悪い、すべてがダメなように見えるときは、頑張り方の工夫が足りなかったり心の持ちようがつたないからではなく、ただ休養が必要なのだ。世間のさまざまなノイズが、この当たり前のことを見えなくさせている。それらは、いい人の顔をして、頑張るようにと、ちゃんとしなくちゃダメだよとささやきかけてくる。本当に気に掛けて言ってくれるものだから、むげに扱えない。だから、知らず知らずのうちに頑張り癖が浸透してしまう。そうやってみんな頑張ろうゲームをしている・・・という時代があった。いまはそんなでもない。疲れたら、ああ疲れたね、という感じで自然に過ごしている人が多いと感じる。ほんとうによかった。