masatoの日記

やっていきます

来年転職することが決まった。

今の職場はかれこれ4年半お世話になった。
転職を決めた理由のひとつは、「仕事の仲間」がほしいということだった。自分の仕事の中身をともにわかちあえる人間が職場にいてほしい、と思った。

早い話、今の職場ではそれができなかった。たまたま職場のなかで、他の人とは違うことに興味があり、その分野で技能を持つようになったので、頼りにしてもらえるようにはなった。必要とされているという意味ではこれはよいことなんだけど、それはあまりおもしろいことではなかった(頼りにされるというのは、便利に使われるという状況にも転じやすい)。むしろ、その興味・技能をひとと共有したいという思いの方が強かった。「こういうのあるんだけど、おもしろくないか?」とか「これ、どう思う?」とかいう熱の乗った会話を、職場の人としてみたいと思ってしまう。

なぜできないのか、と言えば、互いの関心が別の方向を向いているからだと思う。 なんかの仕事ネタを共有してみて、「すごい」と言われることはあっても、「おもしろい」という声はきこえない感じがある。ちょっと引いて見られている具合になっている。しかし、興味・関心を強制することはできないし、無意味だと思うから、これ以上どうしようもない。

同僚がどういう思いで仕事をしているのかわからない。でも、わたしは一定の個人的な関心が仕事にもてて、かつもっとうまくやる方法を工夫しくような働き方がずっと楽しいと感じる。

実は、2年くらい前はそんな状況を変えたいと思っていた。「おれ、皆さんの知らない仕事のコツいろいろ知ってるから、こういうのやろうよ」的な提案をちょっとやってみた。自分が普段やってる仕事の工夫とかそういうことだ。

結果は、同僚の共感をえられず苦い思いをした。

今思うと傲慢だったと思う。でも当時はそれをすべきだと信じていた。

その出来事のあと、しばらくして、職場の雰囲気を変えようとするのはそもそも良いことなのか?という疑問を持つようになった。現状を変えた方が良いというのは、独りよがりに過ぎないのでは?また、「どのように」変化するのが良いとだれが決めるのか?つまるところ、自分の都合の良い環境を望んでいるだけではないのか?

自分ひとりで考えているだけでは、これらの疑問を打開することはできなかった。そして、「職場改善」的な仕事は、いちヒラ社員がやる必要は無いと結論になった。「酸っぱいブドウ」理論を持ち出して自分の気持ちをなだめたみたいな形だ。

とはいえ、職場の「安全・安心」という観点から、それでよかったと思う。 知人のブログgt-24o’s blogを読んでいてそう思った。彼は教師だ。教室とオフィスの違いはあるが、通じるところがあると感じる。職場は多くの人が集まって一緒に働く場所であり、そこでみなが気持ちよく働くためには、安全・安心を感じられることが大切という点は同じだ。

数多くの人間が集まる場所(教室)では、全員の安心・安全が必須だと思う。
それには、
限りなく全員に近く、多くの人が納得し、了解してくれる、
そんなアイディアというか、ルールというか、心意気というか、そんなものが大切だと思う。
こういった考えを提示できるようになるには、
日常生活に起こる出来事の本質をみて、
一つ一つの事象を掘り下げて考えてみることが必要だと思う。
gt-24o’s blog 『納得解を導く思考』より

同僚が納得、了解しなければ、変化は起きない。

そう自分で納得して、周りが変えられないなら、自分が違う場所に行けばいいじゃんとなったわけだ。そして転職の話が決まった。これはもうラッキーだったとしかいいようがない。