masatoの日記

やっていきます

過去の日記を読み返していた。昔の自分の文章の方が、今のよりも鋭く、感受性ゆたかなような気がすることはよくある。歳月を経た分だけ成長するものだという期待があり、これに基づいて成長の具合をグラフで表せば線形になる。しかし、実際はそうではない。それは、立体的であるようだ。多面的といってもよい。強まる傾向があれば、弱まるものもある。それが好ましいかそうではないかは別の話だ。ともあれ、若いころの方が特に鋭さが勝っている気がして、憧れに似た感情を覚えるが、その分?大変さ辛さというのも当時は多く、トレードオフなのかな、という気がしている。年齢が高くなった今は、若かった時よりそんなに大変ではない。なんでだろう。大変さを避けて生きていく要領を身に着けたというのは言えるだろう。あとは、年下の人が多くなって、その人たちが、ありがたいことに、気を遣って接してくれるからだろう。所詮、社会は、一般的には若年者が年長者に嫌われては生きづらいものだ。そういった秩序の効力にあずかっているわけだ。しかし、それには長所短所があるかもしれない。おっさんおばさんになるほど面の皮が厚くなり、その人の本当のところが皮に隠れるような気がしている。でもこれはただ気のせいかもしれない。わからない。わからないが、本音を言うだけで何かを壊してしまうような秩序のなかでは、だれも何も本当のことはいえず、聞こえてくるのは現状を維持するための建前だけだ。それでよいのかもしれない。本当のこととは建前のことだ。「本当のこと」等というものはない。なんにでも軽く受け流せるのは生きのびるためにはプラスになる。生き延びてきたものとはおっさんおばさんのことなのだから、彼彼女らがその力にたけているのは自然なことなのだ。もちろん、自分だってそうだ。