masatoの日記

やっていきます

村上春樹の短編集を読んでいた。きょう6篇読んだ。15年程前に高校生の頃よく読んでいた。今読んでもおもしろい。村上春樹の小説を読むのは、夢をみるのに似ていると思う。過去の出来事を再構築・解釈するような感じが。

騎士団長殺し』が上巻で読みかけになっているので、続きを読もうかな。

会社で届け物をしに出掛けたところ、車のバンパーをぶつけた。その車には、後方カメラが付いていたがモニターするのを忘れていた。自分の車にはモニターが付いていない。代わりに、センサーが付いていて障害物に近づくとピピピピと音が鳴るようになっている。それに慣れていたせいで、後方を目視確認せずにバックしてしまった。

普段と違う状況で焦ると、自分が”自動操縦モード”になって、習慣化した行動が出る。習慣は、状況によっては悪く働くこともある。今回の事故では、センサーが付いていない車でバックをするという不慣れな状況があった。未経験の場面では、自分が取ろうとしている行動の結果をシミュレートし、その是非を刻々と判定する必要がある。これは安全のためだ。人はそれを「冷静な判断」とか「よく考える」とか言う。

わたしのような慌てがちな人々は、そういうことが苦手である。では、そのような人種はどのようにして危険な状況を学習するのか。

1.実際に失敗してみる
2.実際に失敗してみる
3.同上

「よく考えられない」場面に置かれた場合、自覚的に判断できない。ではどうするか。それを無意識レベルで学習するしかない。そのような深いところで出来事の結果を染みつかせる方法のひとつには、強い不快な経験をすることがある。車を事故るのはまさにそれだ。今度はわたしでもバックするときうしろに何があるか注意を払うようになるだろう。

水曜日。ブログに書こうと思ったことを忘れてしまった。

思いついたことを書き留めておいたら、何かが変わったかもしれない。が、その何かはすでにどこか行ってしまった。たとえば、書いていたらそれについて話したくなったとき、すらすらと話せそうな気がする。書いていなかったら、近い将来同じようなことが頭に浮かんだとき、過去それについて思い巡らしたことがあったこと自体、忘れてしまっているかもしれない。だから、書こうとしたことは書いておけばいいと思う。

Netflix、安心感、書くこと、暇つぶし

Netflixを2時間くらい見続けるという退廃的な行いをしている』と書いたのは1月7日のことだった。それからひと月以上がすぎ、いまは2月12日。まだNetflixを見ている。というか、それはいまでは欠かせない楽しみとなって生活に定着してしまった。毎日約2時間としてひと月だと60時間にもなる。60時間だ(!)。その時間をほかの生産的活動に充てていたなら、きっと少なからず違う人生を生きていただろう――そう思うほどの時間だ。

だが、「生産的活動」とは何なのか?

たとえば、毎日その時間を勉強に充てたとしよう。60時間もあれば、何か1つの分野で「初心者」から「初級者」に行けると思う。両者のあいだには大きな差があるのだから、たいしたことだ。しかし、かなり疲弊することにもなる。仕事の疲れを押しやって、そこにエネルギーを投入するのは並大抵のことではない。そこまでして努力するというのがそんなにエライのか?わたしはNOと思う。そんなことよりほどほどにたのしく過ごす方が大切に決まっている。それがわかっていたからNetflixを毎日見ているわけだ。

いや、勉強=生産的というのは視野が狭すぎる。そうじゃなくて、人と過ごす時間とういものがあるでしょう。なんか、友達と飲みに行ったりとか、イベントに参加して新しい人と交流したり、あたらしいことに触れてみたりとか、そういうあれこれ。そう、そんな時間の過ごし方だってあるんだけど、腰が重い自分にとって、そういう場にしょっちゅう出掛けるのは負担になる。たまに行くのはいいが、行き過ぎるのはつかれるから止したい。 そういうわけなので、やはりNetflixを見ている。

こんなわたしにとってNetflixは、いまや毎日をここちよく過ごすために欠かせない存在となった。生活インフラといってよいだろう。たのしいハッピーなドラマをとおして、社交生活の雰囲気のエキスみたいなものを提供してくれる。バーチャルだから無意味かというとそうでもなく、ある部分の社交欲求を満たしてくれて、心理的安全を感じることができる。画面で起こっている楽しい何かをみていると、たしかにそういう安心感が得られるのだ。

リアルで満たされない部分をネットで埋め合わせるというと自虐的すぎるだろうか。しかし特段そういうわけでもない。むかしから人々は同じような働きをテレビに期待していたはずだ。今の時代は、選択肢が増えて、テレビだけでなく、ネットドラマ・映画、電子書籍の漫画、YouTube、などから選べるようになっている。形態のバリエーションが増えただけで、やっていることはたぶんほとんど同じだろう。なら、テクノロジーとうまく付き合えばいいだけのことだ。選んでいるのがテレビではないだけだ。(やはり自虐的かもしれない。)

結局、リアル/バーチャルという対立は意味が無いと思う。両方とも存在しているものだし、双方が互いに影響を与えているのだ。ネットでたのしんで気分良く過ごせることが、リアルでの振る舞いを健康にしたり、リアルの充実がバーチャルな何かの創造力につながったりするはずだ。よって、どちらかが「正」であるという見方は適切ではない。

まあ、いまのところわたしは何も創造していないのだが。

さて、バーチャルな世界は安心して楽しめてよいのだが、それだけだと発散されえない何物かが蓄積されてくる。そういった負のエネルギーが自分の存在をあやしいものにしていく。(自分は、はたらいてネットして、日々命をすり減らしていくだけの存在なのか?)そんなときは、自分の存在を消さないためにブログに何か書いたりしている。また書くことが、自分をちょっとでも今と違うところへ運んでくれるかもしれないという期待がある。普段浮かんでは消える思考とか、あいまいな感覚とかを文字にすることで、何かわかることがあるんじゃないか。そうしたら、新しい何かが起こるかもしれないというような期待感。まあ、書いても全然何も変わらないかもしれないが、それでもいい。すくなくとも暇つぶしにはなるのだから。何もすることがないときにやる何かがあるというのは、すばらしいことだ。

学生の頃、月給8万くらいで2~3か月生活していたことがある。
家賃は3万円くらいだった。
ほぼ毎日トマトパスタをたべていた。
プレハブみたいな建物で、2階建ての2階が部屋だった。
朝になると、屋根に鳥があつまってきて、うすい金属の屋根のうえを歩くと、部屋はカツカツカツカツという音で埋め尽くされた。
12年くらい前の出来事だ。
その頃、何を考えていきていたのかと思うと、全然わからなくてとても不思議な感じがする。

実家から出たくて、一人暮らしがしたいと思ったから引っ越したのだった。
スーパーでバイトしていて、時給は800円くらいだし、長時間はたらく体力もなかったから、収入は期待できなかった。
だから安い部屋を借りるしかなかったのだ。

それでも学費は親が出してくれていたし、同級生には学費も生活費も自分で稼いでいる人が2,3人いて、彼らとくらべると自分は生活能力で劣っていると感じたものだった。
それでも、結局自分にできることしかできないわけだから、生活費のことだけ気にしていればいいとはいえ、毎日パスタを食って、週末は金を使わない過ごし方をして生きていたのは、窮屈ではあったと思う。あんまり覚えてないのだけど。

選択肢がなかっただけとはいえ、そういう生活でしのげていたのは生命力があった。  

大学生活というと、「超楽しい」「サイコー」みたいなイメージが多い。「大学つまらんかった」と人が言うのを聞いたことがない。それは、学生生活をエンジョイした人びとが多数派だというのと、大学生活つまらんかったという発言が負け犬的雰囲気を帯びてしまうから口にしたくないというふたつの理由があると思っている。

負け犬はいやだ。

だが、過去は過ぎた。それは変わらない。

本当のことをいえるのが、結局はよいのだ。

自分は、大学は楽しかったし、つまらんかった。

楽しかったのは、おもしろい人たちと会えたこと。
つまらんかったのは、頑張ったつもりだけど、自分の殻から出られなくて他人と本当の意味で交流できなかったことかと思う。

自分なりに力を尽くしたつもりだったが、うまくいかないことが多く(うまくいったこともあるにはあったにせよ)、他人と自分を比べて劣等感にさいなまれたりして過ごしていた。
今思うと、そんなことどうでもいいからもっと適当にやれよ、とか思うが、当時の本人はそうとは思えないのだから仕方がない。
大人は、経験があるからいろんな言葉をもっているが、それは単に失敗の数が多いからだと思う。
そしてその失敗の経験は言葉では他人に伝達できない。
その失敗をじかに生きてみないと、理解できない。

言葉が他人に何かを伝えられるときは、その人の雰囲気によってとか、言葉の性能がすごかったりするときなのでは。
つまり、伝わっているのは、相手の言葉以外の何かであるか、言葉から常軌を逸した何かが出てしまったときに限られる。
それ以外の言葉は無力だ。それで何かわかった感じのことを表現して、わかってない者にとって何を伝えられるというのか。 そう思ってしまう。

今年も早いものですでに2月になっている。4月から東京ではたらくために引っ越しをしなければならないのだけど、いよいよさったと動かないと住む場所がなくなる。

うさぎを飼っているので、ペット可の物件でなければならない。ペット不可の部屋で飼うのは心理的負担になるのでダメだ。多少高くても安心して生活できることの方が大切である。

よく言われるように東京の賃貸はバカ高くて、同じ金だせば他の地方都市ならキラッキラのお部屋にすめる程だ。名古屋で賃貸を探してみてほしい。8万、9万の賃貸は、家族で住めるような広さの部屋か、それともひとり暮らし向けなら悠々自適な感じの部屋がみつかる。それが東京だと6畳ワンルームだったりするわけで、理不尽だと言わざるを得ない。まあ、家賃をものともしない高収入であれば問題はないのだが、明らかなように、そうではないわけので、人はどうしようかと不安になるのだ。

賃貸が高い話はもういい。

今回の引っ越しは人生ではじめて他県への移住となる。ずっと愛知県で生きてきた。県内の引っ越しなら4回している(割と多い気がする。平均どのくらいなのか?)。はじめはドキドキするが、慣れると割と平気。知ってる土地だから。でも、全然知らない土地に行くとなると、どういう生活をすることになるのかイメージがあいまいになって、心がざわざわする。このざわめきは、学校の頃のクラス替えを控えた時期のそれと近い気もする。期待と不安が入り交じって、下手したら友達ができなくてどうしようとか思うし、でもかわいい女の子と仲良くなれたらいいなとかいう希望もあって、落ち着かない時期。学校みたいな固定的な環境では、クラス替えは一大事だ。

大人になると変化を怖れるとか言う。歳を取るにつれて失うものができてくるとか、若い人は失敗しても取り返しが付くとかそもそも失うものなどないのだとか。そうはそうかもしれんけど、若い人ほど自分以外の何者かによって何かを強制される機会が多いんじゃないか。それは、好むと好まざるとに関わらず、変化させられてしまうと言うことだ。若くたって変化や失敗が怖いひとはたくさんいると思う。怖くてどうしていいかわからないけど、他にオプションがないから、やるように追い込まれているだけのときだってある。年配者は相対的にそういう状況になりにくい。

なぜなら、あるポジションにそれなりの期間いると、周囲が自分に合わせてくれるようになるからだ。これは他人に理不尽な要求を迫られる機会が減るということである。これを安定と呼ぶかぬるま湯と呼ぶかは完全に個人の感じ方の問題かと思う。自分は、安定だと思ったし、ぬるいとも思った。同時にぬるいのが何が悪いのかとも思った。でも結局、転職することに決めてしまった。

ところで今の場所には、5年ほど暮らしている。そのあいだ同じ会社に勤めていた。社員数70人ほどの会社なので、社内の環境には慣れきっているといってもよく、部署異動などで同じ社内でも新しい環境になるということはなかった。そのために、学校のクラス替えのような強制的な環境変化はここ長らく起きていなかった。ある意味、コンフォートゾーン内で生活を完結させられるようになったといえるだろう。そんなわけで、転職のように強制的に環境が変化する機会は久しぶりだ。

環境が変わるというのは、よくも悪くもストレスがかかる。負荷がかかると、あれこれ考えるきっかけになって、それはまた興味深い。

引っ越し業者の選定とか、荷物の整理とかがんばろう。