masatoの日記

やっていきます

がんばりたくないという気持ちはずっとある

「頑張る」というアイデアが嫌いで、可能ならまったく頑張らないで生きていきたい。人には言わないが、おもってはいる。そんな自分はしかし実際には自分なりにそれなりに「頑張って」生きている。この「頑張る」というアイデアについて、かなりこじらせているようで、嫌いなくせにずっと頑張らないままでいると、「これでいいのだろうか??」と不安で仕方がない。この、「これでいいのだろうか??」を背後で駆動しているものの正体は何。それは淘汰されることへのおそれか。何に?どうやって? ともかく、淘汰されるのは嫌だ。だけどいつ滅ぼされるのかと脅えながら暮らしていく方がもっともっと嫌だ。それくらいなら、嫌々でもやってしまったほうがずっと簡単である。人が嫌々がんばってるのはそんな訳からなのではないかと想像している。たがしかし、おそらくは残念ながら、これは心的態度としてうつくしくない。だから口外せず心の中にしまっておく。自分は、自分にとっての「頑張り」のもっとよい落とし所を求め続けている。「頑張る」に替わる表現を。やりたいとやりたくないで板挟みになりながらも取り組んでいく、その姿勢をさわやかに表現する言葉があるべきじゃないか。

金曜日

f:id:masatoz:20170923220509j:plain平日、電車で片道2時間くらいの山のなかへ一泊二日のひとり旅行がしたい。洗面用具と仕事道具だけ持って、手ぶらで泊まれるロッジにいく。いつもと違った時間が過ごせそう。最高に平和にひとりを満喫できそう。インターネットがあればできる仕事についたらやってみたかった。

2時間くらいで行ける距離というのが大切。遠出している感を味わいたいので。1時間でいけてしまうと、、どうなのかな。近所、という感覚が非日常の特別感を損なわなければ大丈夫だけど。場所さえよければむしろ近いほうが良かったりして。まあ、やってみないとわからない。

木曜日

f:id:masatoz:20170924224920j:plain ツイッターをみていたら、環境に負担のかかる食べ物の研究結果が流れてきた。英国の研究機関による発表だったとおもう。リンクを探してみたがすぐにでてこなかったから記憶で書いている。結論をいうと、人類が完全にベジタリアンになれば、世界中の農地の75%を自然に還すことができ、その面積は、中国、アメリカ、オーストラリアをすべて足してもあまりあるのだという。肉と農地の関連は、飼料に必要な穀物を生産するためのものだろう。 

なかでも牛肉が高コストであるとし、鶏肉の4倍以上の環境負担があるという。牛肉の値段が高いのは畜産のコストを反映しているのだろうか。地球上で一番個体数の多い哺乳類である人類が肉食をやめることで、肉を育てるためのコストを大きく削減できるという結論が出ていた。それで人類が肉食をやめるとはちょっと思えないが。 

僕は肉を食べる。鶏肉と豚肉が多い。量はそれほど多くは摂らない。肉を食べたいという欲求はさほど強くない。減らすことができればよいくらいにおもっている。理由は、地球環境に負担をかけるから、という意識はそんなになく、どちらかといえば生き物に対して悪いような気がするということの方が大きい。

学生の頃、「いのちの食べ方」という畜産ドキュメンタリー映画をみた。生きた牛が屠殺され、解体される様をみた。生後間もない豚の爪がカッターかなんかで雑に指と一緒に切断されていた。それらの映像が世界の畜産すべてを表現しているとはいえそうになかったが、それでもなお、多くの低コストな肉は生物にとって厳しい環境で「製造」されているのだろうと想像できた。現代の畜産産業というのは陰惨なものだ。そういう印象だった。単純にいえば、生き物がかわいそうだった。

まあ、そんなことを言っても依然として肉は食っていたし、偽善といえば偽善といえる。かわいそうだ、食べるのはよくない、と思ったが食べているという形になる。一応言っておくと、肉を食べるのよくないと言うつもりはまったくない。肉を好む人たちを批判するつもりはない。ただ、個人的にはがつがつ肉を食うまでもないというだけだ。

完全にベジタリアンは大変すぎるので、いくらかは食べ続けていくだろう。さっそく今日は焼き鳥屋にいってきた。焼き鳥はおいしいね。

水曜日

気づいたのだが、アルコール度5%のビールの95%はアルコールではない。ということは、そのほとんどすべてが、材料の選択や作られ方にゆだねられているのではないか。「アルコール飲料」という枠でみるとき、アルコールが含まれていることに気を取られすぎてて、そのほかの成分がおまけに見えていた。事実はその逆だ。割合としてアルコール以外が圧倒的に多いこと、お酒の風味を決めているのもそっちなわけなのだった。酔うことに重点を置きすぎていたせいで大切なことを見落としていた気がする。だって、消毒用アルコールだってアルコールなわけだが、じゃあ消毒液飲めるかとえば飲めないわけで、お酒はアルコールだけでできているわけではない。当たり前に聞こえるかもしれないが。すると、安かったり高かったりするお酒の、とくに高い方の部類を買うときに、自分は単純にアルコールにではなく、香り、味わいを構成しているその他部分にお金を払っているのだという心持になれて納得度が高まる。また、多くのモノがそうであるように酒もまたパッケージとか宣伝とかによって醸し出される雰囲気も味わいに影響してくる。ソフト的要素もあいまって、お酒にたしかにアルコールは必要だが、もっと大切なところはそれ以外にある。そんなことを考えていた。

火曜日

起きたら曇っていて出勤したくなかった。だから自宅勤務することにした。通勤時間が浮いた。そして、コンビニで買ってきた菓子パンを朝食とし、仕事をはじめた。わからないことはググる。わかったら少し進んで、またわからなくなったらググる。ググってわからなかったらもっとググる。ググりでわからないことを解決していく。記事に書いてあることは他人の知識だが、試行錯誤して得た結果は自分の血肉となる。そして、昼がやって来る。一時間のうちに近くのスーパーへ買い出しにいく。週末まで食いつなぐための食料を調達する。昼飯は焼き鳥丼だった。そして、午後も午前と同様にやっていく。音楽を流していた。Tychoという。エレクトロニカだ。昨日、会社でよいBGMが流れていると思い、Shazamで検索して誰の音楽か調べた。午後三時、外はだんだん明るくなっていた。ほぼ晴れのくもり。気温は上がり蒸し暑くなっていた。はたらき続ける。午後六時くらいで電池が切れる。日が落ちて、だんだん暗くなる。日没後、しばらくして完全に暗くなった。父親から電話があった。シングルモルトウイスキーを受け取ったのだった。一日早い父の日のプレゼントだった。ついこの頃、酒はビールを好んでいたが、ウイスキーに興味がでてきたところ、ちょうど父がウイスキーを飲んでいたことを思い出して、贈ってみた。今度余っていたら少し味見させてもらうつもりでいる。  

遠くをみたい

右の目玉を触ると筋肉痛のような感覚が走る。目玉が、というよりは目の周りの筋肉が凝っている。左側はなんともない。右を使いすぎる癖があるようだ。  

遠くをみたい。画面を見すぎている。PCモニタ、スマホ。どこにいっても画面がある。  

遠くを見ると気持ちがいい。街中ではあまり遠くはみれない。すぐそばに物体があるからだ。そのなかで空だけは遠くにある。広がりを感じるのは立体的な雲が浮かんでいる晴れだ。前景に雲、後ろに奥行きのある青がある。曇り空はのっぺりとして距離感がない。雲の先がみえない。焦点が近くなる。夕焼けは最高だ。心が洗われるようだ。かっこいいやつはたいてい外にいるときにだけ見れる。だがちょうど良い時間帯に外にいることが少ない。平時は仕事中で建物の中にいることがおおい。また休日にしても部屋にいることはおおい。旅行のとき、わざわざ夕日が見たくなる。車をはしらせながら見る夕日はよいものだ。見れそうな時間に合わせて外にでたりする。朝焼けもきれいだろうが、寝ているので見れない。

空が広い土地に行けば、かっこいい空をみれる確率があがるだろう。そういう場所に行きたい。