masatoの日記

やっていきます

月曜日

中学校の2次元一次方程式のプリントをやっている。17問をめやす10分で解く。これまで4回同じプリントをやった。1回目は14分かかった。2回目も同じくらいかかった。3回目、9分45秒になった。そして、今日4回目、9分13秒でできた。

はじめやったとき、「これ10分はきつい」という感じであった。14分かかったから、4分以上もはみ出している。ちょっとした無能感を味わった。2回目もほとんど同じで、これは自分には無理なのかもしれないとおもった。やめたいと思った。辛い思いをするのは、嫌だ。しかしそれでも嫌々ながらやっていき、3回目で5分以上短縮できた。何が起きたのか。

一般的に問題には、正しい解法や手順が存在している。それに従えば効率的に解けるというような手順が。そして、やりはじめる前に、正しい手順をおぼえようとすることが多い。しかし今回、「正しい手順」は参照しなかった。書いてなかったし、探しもしなかったからだ。ただそれだけだ。正確な手順が大切という頭になっていると、問題そのものに取り組むよりも、その解法ばかりを考えているという状態におちいってしまう。それはむしろ遠回りをしている。それより実際にやってみたほうがいい。

問題を繰り返しやっていると、やるごとにすこしずつうまくできるようなコツが蓄積されていく。コツが体感として会得されていく。3回目ではそれが一定以上たまった結果、サクサクとできる状態になった。地頭が良ければ初回でできるという話はあるが、どっちでもいいことだ。できるだけでやっていくしかないし、できなかったら繰り返してやればできるようになる。

というか、別にできるようにならなくたっていい。頭が悪いままでいたってよい。あほのままでよい。自分が納得していればよい。納得できるかどうかは、他人の言葉で語られる理屈じゃない。自分の言葉で納得するしかない。そしてそれは、ネットや本を探し回っても見つからないものである。いくら、それを外に求めても見つからない。そういう意味で、ありがたい人の話、いいことが書いてある本に恵まれたって救いとなるわけではない。

だから日々、Twitterとか購読しているブログなどを読み、読んで楽しければそれが最上だろう、という状態になっている。

日曜日

目の奥が痛む。雑用をいくつか済ませ、買い物に行った。引越し以来ハコに入れっぱなしだった本を本棚へうつした。おかげでダンボールが3つたためた。部屋が広くなった。すがすがしい。 

横浜美術館にTATEブリテンが所蔵してる作品が展示されてるというので、見に行こうとした。しかし行動するのが遅すぎで間に合わず、あきらめた。時間切れで強制的に可能性が絶たれる感じがつらい。 

最近ウイスキーがおいしく感じる。おいしく感じる前は、あれをうまいという奴はオシャレぶってるだけなのではと疑っていた。3年前くらいになんとなく買ったカティサークを思い出したように試してみたら、案外いけることに気づき、それ以来定期的に楽しむようになっている。そして残りあと6分の1くらいになったのであたらしいのをポチった。

いまさらだが村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。13歳の少女と主人公が交流していくところが『ダンス・ダンス・ダンス』を思わせる。最近できるようになったのだけど、小説を読んでいて、人物や風景を割とよく映像として思い浮かべることができる。あるいは多くの人ができるのかもしれないが、ぼくはできなかったことだ。できなかった頃、どういう世界を再現していたのかというと、もやっとした情念イメージみたいなものであったと思う。輪郭がぼやけている。解像度が良くも悪くも低い。絵でいうと、抽象画。したがって、人物は抽象的な存在であって、特定の人間として想像されることはなかった。今は、実在する人物のイメージが小説内の登場人物にオーバーラップしてくる。描かれている特徴を読むと、自分が知っている実在の人物のそれとが結びついて、映像が立ち上がってくる感じ。視覚は割と見れるのだが、音声をあたまの中で再生するのは自分にはできない。記憶に色がついている人、音声が再生できる人がいると読んだことがある。そういう違いが人によってあるのだろう。自分の記憶には音声がうしなわれている。声が思い出せるってすごいよね。そういう人、どこにいるんだろう。

梅雨ってこんなだっけか

6月も残すところあと1週間になった。雨はたしかに多い。だけどさほど蒸し蒸ししてない気がする。梅雨っていつもこんな感じだったっけか。この程度ならさほど苦じゃない。最近の週末はどちらかが終日くもりだったり雨降りだったりしている。天気が悪いと睡眠時間が非常に長くなる。そういうものだと観念して寝ていることにしている。それでよい。

水曜日

仕事やっていくことについて。取り組みの方向を、生存のためと充実感を得るために分けてみる。まず生存とは、ご飯を食べていくため。心身が健康に過ごせるように衣食住をまかなえること。でも期待するのは衣食住だけではない。仕事そのものを楽しみたいという気持ちがある。自分が実現したい、おもしろそうなどと感じることをどうせならやっていきたいとかいう気持ち。自分の価値観と仕事の内容が調和していて、なおかつ労働環境が十分によければ(あるいは致命的に悪くなければ)、充実感をもってはたらけると期待できる。

個人的に頑張ってやっていこうとするのは、生存能力を強化したいからだ。そうすれば、いわゆる食いっぱぐれがなくなって、安心して暮らせるようになる。安心感は大きな価値だ。ゆとりがもてたほうがたくさん笑っていられるんじゃないかとおもう。ギリギリの心理状態で戦っているみたいな状態は避けたい。働き方の好みのスタイルは人によって違うだろう。自分はできればゆったりとした気持ちでいたい。好戦的な感じは疲れるともおもう。簡単にいうと、手に職をつければ食い扶持に困らなくなるだろうから、人生の心配が減るだろうね、という気持ちで生存能力を強化したいということだ。

繰り返しになるが、生き延びることを主な目的として生きていくというのは辛い。自分にとって軸となるのは、多めに笑って、ゆったりして、くつろいで生活していけるような働き方、というところになる。そのために仕事をしていく。 

自己啓蒙が盛んになっていて、淘汰の圧力がいま強い。圧が強く感じる理由のひとつには、僕が不安を煽られやすい性格だからだろう。「(何か勇ましいことあるいは金になりそうなこと)をやっていく必要がある!!さもなければ(何かわるいこと)だ」的論調になんだかんだで影響されてしまうところがある。まあ、本当に競争が激しくなっているという面もあるんだろう。とにかく、そういう風潮のなか、あちこちでわあわあ言っていて、いちいち心が動かされているとすごく疲れてかなわない。自分がどうしたいのかを知ることがとても大切になる。またこの気持ちは変化していくものでもあるから、悟ったら完成みたいな話でもなく、自問自答をつづけていく姿勢が求められるとおもっている。