masatoの日記

やっていきます

「夢」のはなしが辛い。居酒屋などで「夢」の話題になったとする。順番に、それぞれの「夢」が語られる。自分の番に何をいうか。「夢」はないのだ。だが、「ない」というのはなんだか気まずくて言えそうにない。じゃあ、でっちあげてしまえばいいかという考えが一瞬よぎるが、嘘を付くのは悪いと思い直してやめる。結局、よくわからない事をもごもご言うことになる。場の空気が「???」になり、停滞する。そのとき、「夢」を持たないことは、この世界では罪になり得るのだと、辛くなる。勝手な思い込み。だけど、そう思ってしまう。不毛。相手も別に大きく期待しているわけではないから、「ほどほどにやっていければ満足です」くらいに答えればOKなのかもしれない。「この人は特に夢がないのだ」ということを当たり障りなく察してくれるだろう。

個人的に残念なのは、人に語れる夢を持たないことではない。そうではなく、本音をいうことで場の空気がしらけることを恐れ、もごもごしてしまう歯切れの悪さだ。しらけるよりも、歯切れが悪い方がつまらない。よく思われようとしているのが寒い。失望されることを避けようと頑張るけど、結局、もやもやするだけで後味がよろしくない。

夢と近距離にあると思われる「成長」というやつも苦手である。「今の状態に満足したら成長は止まる」という格言?がある。それはそうなんだろうけど、別に成長しなくていいじゃん、と最近思うようになった。成長したい人はすればいい。望まない人は満足してればいい。「足るを知る」ことはよいことで、満足できるというのはよいことだ。満足できる状態を楽しみたい。

成長に興味がない、というのは停滞のしるしか。歳をとって、かつての自分が自分に課していたようなタスクをなんだかんだでこれまでこなしてきて、一定程度の成長を達成してしまった、というのが理由かもしれないと考える。それが、客観的に立派なレベルに達しているか、というのは完全に脇に置いてだけど。それで、今停滞してしまったからけしからん、次なる成長を求めて行動しよう、という気持ちにはなるかといえば、ならない。特に情熱が ないということだけど、これは、安定している、ということの裏返しといえるのか?

今日はとくにうじうじとうっとうしいことを書いている気がしている。自分で自分をディスっているような。ディスが裏返って肯定的な価値を持つところまで行きたい。