masatoの日記

やっていきます

家計簿をつけはじめて1月たったのでごくあっさりと振り返ってみる

レシーピというスマホアプリで家計簿をつけるようになってからひと月たった。
記録はこれまで無自覚だった現実に気づかせてくれる。

食費だけでみると、11月は30,547円だった。記録しそびれた分がすこしあるから、だいたい3万円前半だろう。

事前のネット調査によると、ひとり暮らしの食費平均は2万~3万程度だったから(ひとり暮らしって母集団多過ぎだけど)、まあ、こんなもんだろう。でも、自分にとっては大きな変化で、以前はまったく計算せずに買い物していたから、けっこうな節約になった。

あと、以前はスーパーで半額になったすしを毎日のように買っていたのだが、家計簿をつけてから全然すしを食べなくなった。なんだかんだいって、半額でさえ、寿司はそれなりにするのだと認識するようになった。あたりまえといえば当たり前だが。食費というのは、ふんだんに使おうと思えばそれなりに使えてしまう。好きなものを食べると満足が得られるので、たべるのが好きな人にとっては納得のいくお金の使い方だろう。他方で、節約しようと思えば、かなり大きく支出を圧縮することもできる。

この家計簿アプリはよくできているので、何にお金を使ったのかをジャンル毎に集計できる。さらに円グラフで比率がわかるようになっている。その円グラフで気づいたのは、

・食費は3万前後あれば不足はない
・服が高い
・外食すると金がかかる
・車は金がかかると知っているつもりだったが実際はもっとかかっていた

などなど、だいたい「そんなの知ってる」的な感じかもしれないが、意外な発見も得られた。

支出を意識するようになると、自然と管理ができるようになる。その結果、貯金が急速にできるようになった。

テクノロジーの進歩のおかげで、レシートを写真撮影するだけで、とても簡単に家計簿が付けられるようになった。その恩恵で貯金ができるようになるわたしのような人間もいて、レシーピの開発者には感謝している。ありがとう。

「正しさ」についてかんがえた

『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』という本を読んでいる。直球なタイトルだ。

どんな男がモテるか、というくだりで、「損得勘定と正しさ、どちらにこだわる男がいいですか?」という質問を宮台氏が学生にむけてしたことがあったそうだ。答えは全員が後者だったらしい。
思い出してみると、たしかに、かっこいい感じの人は「正しさ」っぽいものを持っている雰囲気がする。

それで思った。正しさとは何か?みんなが納得できるような「正しさ」がなくなったとされてからずいぶん経つ(「大きな物語の終焉」とか)。そして長い間、わたしは、みなに共通する正しさなど不可能なのだから、個人がおのおの「小さな正しさ」を持って生きればよいのだおもっていた。これはさたちにとって、第一に自分が生きやすくなるようにように正しさを最適化していくということだった。

だがそうすると、「正しさ」はとても小さくなり、その射程はごく限られてしまう。自分と、自分の価値観にごく近しい人だけだ。
これでは、ごく小さなあつまりのなかでさえ、他者と共存していくのに苦労するレベルとなる。

苦労するなあ、という実感を得たときに道はふたつある。

小ささを維持する道と、大きくしていく道だ。

小ささいままでいるとは、ある意味、他者との関わりから退却する道。わずらさしさを避け、快適さを維持するために、計算不可能性(=他者)を減らしていく。要は、「正しさ」を共有できない相手とは、意識して距離をとるようにする。近づきすぎると不快のもととなるからだ。対策としては、礼儀正しく、あたりさわりなく人と接するようにする。しかし、これはストレスがたまる。

正しさを拡大する道は、わたしにとって新しい感覚だ。自分の正しさの根拠を、自分の外に拡げていく。その正しさが、わたしにとってよいものであると同時に他者にとってもよいものであるような正しさを持つということ。おそらく、共感する力ともなる。本で説かれていたのは、こっちのほうの正しさだろう。

「正しさ」というとちょっとおおげに響くかもしれない。だがそれを振りかざし、他者をコントロール使用とするのでもない限り、自分一人でひっそりとできることだ。だから、さわがしくない。正しさを他者にとってもよきものであるように拡大していこうという意思は、穏健である。

以上のことを「性愛」の本をよんでおもった。そうではあるが結局、人を「正しさ」に向かわせるのは、モテたいという欲求によってではない、とおもう。それはもっとめんどくさくて、時間のかかることだと個人的にはおもっている。今より若い頃はもっとモテたい願望が強かったが、純粋に仮定のはなしとして、当時この本をよんでもさっぱり意味がわからなかっただろうし、別の効率的にみえる方法を探し求めただろう。いま、何かしらを感じ取れるようになったのは、年を取って(昔と比べれば)それなりに経験をしてきたということ以外にない気がする。ひとそれぞれ、たいへんな思いをしているなあ、というのはある程度ひとと関わっていかないとわからない。なんか、なりゆきを肯定しているだけかもしれないが。

宮台真司が「クソ○○」を連呼するワケがわかった気がした

「どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント」という本を読んでいる。AV監督の二村ヒトシ氏と社会学者の宮台真司氏の対話形式をとっている。タイトルだけみると、「セックス指南」の本みたいだ。しかし、そういうテクニックが直接的に説かれているわけではなく、「社会学的」な内容となっている。

本書の本題からいきなり逸れるが、宮台氏はしょっちゅう「クソ」という言葉をつかう。「クソ女」「クソ男」「クソリベ」とか、まあクソまみれだ。わたしはそこのところが正直「感じ悪い」と思っていたのだが、本書でそれが解け、はじめて宮台真司に好感を持てるようなった。

対談の途中、二村氏が「宮台さんはよく『クソ○○』という言い方をされていますが、なにか意図があるんですか?」(だいたいこういう意味だったと思う)というツッコミを入れていて、宮台氏がそれを説明していた。(すばらしい問いだ。思えば「クソ」という言葉は、この種の本ではぜんぜんみかけない。)その理由は、ひと言でいえば「社会はそもそもクソだから」ということだった。なぜ社会がクソであるのかは本書を読んでもらうのが一番よいとして、著書の(たぶん)いたるところで「クソ」を連呼しているのだが、そこには「社会はクソである」という前提があったのだ。まったく想像できなかった。気にくわないものがたくさんあるんだなという程度の認識しかなく、浅はかだった。そして、なぜ「クソ」なのかの説明を受け、感銘を受け、宮台氏の印象がよいものにかわった。

ちなみに、宮台氏は「感染(ミメーシス)せよ」ということをたびたびいっているのだが、(「クソ」を連呼する感じの悪い人に言われても)心理的に受け入れがたかったところがあった。だから「なんとなく宮台の本は苦手だ」という人は本書を読んで、筆者の前提を踏まえておくと、その他の著作になじみやすいはずだ。そういう意味でもおすすめだし、本書がメインであつかっている「性愛」についても刺激的な思考が展開されていて、とてもタメになる。

「物事の結果の責任はすべて自分にある。他人・環境のせいにしてはいけない」という考え方に懐疑的である。 「いま生きている世界は自分がつくってきたもの、そのことをちゃんと受け止めなさい。このことから逃げるのは薄弱者である」という声が聞こえてきそうな感じがする。嫌だ。
(まあ、薄弱者な面があることは認めるとして)この考え方は、ものごとの多様で微妙な側面を暴力的になかったことにしてしまう。
この論法をつきつめると、現在に不満・生きにくさを抱えている人間は、すべて本人が悪いからだということになる。こういう考えが透けて見える人は「あなたのためを思って」というツラをしていることがある(いつかの記憶)。 他人を力で変化させようとしてくるひとびとは不穏な空気をまとっているものだが、そういう感じだ。
個人的にはむしろ、そんなふうに画一的に捉えても状況はよくならない。ほんとうに人のためをおもうのなら、ていねい状況・背景をふまえて、行動の指針をたてたい、という立場だ。

結果がとても重要なときには、事の背景を細かく考慮している余裕はないだろうから、結果の責任が(とりあえず)すべて自分にあると考えるのはアリだと思う。環境をコントロールできないとき、変えられるのは自分の範囲だけになるからだ。だから、自己責任論的な考え自体がいやだということではない。ただ、だれがその結果にこだわっており、だれがだれに責任を負わせようとしているか、は肝心な点だと思う。本人がどうでもよいと感じている何かに対して、他人がその責任を押しつけようとすると、不可解になる。(望まない仕事)

そういえば、一昔、危険地域に訪れテロの犠牲になった被害者に対して自己責任論がいわれていた。正直に言うと「まあ、危険と知っていて行ったのだからしょうがないかもしれない」と思った。ただ、奇妙だったのは、一部の人達はどうも怒っているらしかったことだ。「けしからん」みたいな感じで。亡くなってしまった人に対して、さらに追い打ちをかける非情さというか、世の中にはそういう厳しい人達もいるんだ、と感じた。

なにが言いたいのかわからない文章になってしまった。

とにかく、困るのはどんな場面でも自己責任論法で突き通してしまうことだ。これは、自分にも周りの人にも非常に有害になると思う。

断酒

晩酌の量が350mlひと缶からふた缶にふえ、ほぼ定着してきた。この量だと翌朝、からだがちょっと重い。

酒は中毒性があるうえ、からだに負担をかけるから気をつけないといけない。疲れがだいぶ出てきたのできょうは酒なしだ。年を食って、体調の悪いときは酒を飲まないということが自然にできるようになった。よいことだ。毒はくすりにもなるが、まず毒だということを見過ごしてはいけない。適量を摂取してこそくすりとなり、生活をゆたかにしてくれる。

というのは建前。たくさん飲めるように体調を整えておきたい。わ

エモさ

ほんとうに興味深いのは、「エモさ」だという気がする。 そこでは気持ちが上下する。

だが「エモい」ことを言ったり、書いたりするのはむずかしいと感じる。 たぶん、心理的にむずかしい。 他者に向かって何かをいうことは、拒絶される可能性を受け入れることである。 自分の「エモい」部分を拒絶されるのは、勇気がいる。
そこで妥協して、当たり障りのないことをいう。

快/不快だけで判断することは実は難しいと思う

心地よいことだけをやることにすると、ほとんどのことはできなくなってしまう気がする。それは嫌なので、何もしないよりは、多少しんどいけど何かをしていた方が楽という、ちょっと複雑なあり方になる。
 
嫌なことをすべて断っていったらどうなるのだろう。
 
たぶん、人生が極端に限定されるだろう。
 
なぜなら、これまでの経験を振り返って、はじめから100%心地よい経験というのは見当たらないからだ。ある程度のしんどさはついて回る。わからないけど、もしかしたらいいかもしれないからやってみる、ということを繰り返した結果のなかからいくつかうれしい経験が得られたのだ。
 
ここで、楽しいかどうかはやってみないとわからないというおなじみの前提に戻ってくる。
 
やってみるべきことと、やらないほうがいいことの境界はいつまでもあいまいだ。そのあいまいさに耐えつつ、たまに失敗したり、成功したりを続けていけばよいのではだろうか。