masatoの日記

やっていきます

まだ引っ越し仕事を継続している。今日もかなり全力だったし明日も明後日もハードに取り組まなければならない。 何をそんなにすることがあるのか?5年のあいだに積もり積もった負債を始末しなければならない。身に覚えのない不用品に埋もれていて、部屋を空っぽにするだけで大変な骨が折れる。空にしたら分別して処分する必要がある。際限なくあふれてくるモノモノモノ...これ全部なくなっても全然困らないんだけど、どうして抱え込むようになったのか。不思議。あさってまでに葬る予定。

自分のなかの理想的な人物像として、困難なときでもおだやかにしていて、人の落ち度に寛容というものがある。つまり、心が広ーい人。

常に穏やかでいるというのは、仏の領域かと思う。いつも大仏様の顔をしているレベル。人の落ち度というのは、許せるところと、許しがたいところというのが人によって違っている。ピンポイントでどうしても我慢ならないという急所がありがちだ。そこを突かれるとどうしようもなく爆発することがある、という箇所。これを克服しようとするのは自由だが、個人的には悪手だと感じる。そういう超難関に執着しているより、もっとやりやすい課題に取り組んだ方がはかどるんじゃないか。

なにがいいたかったのかわからなくなった。現実は理想を裏切り続けるので、理想は理想としてとっておけばよい、と思ったんだった、たしか。裏切るというか、ズレるというか。どっちでも大丈夫じゃないか、というか。

自分は「成長」とか「克服」とかいう考えを遠ざけているところがある。そういうことばを使わなくても、生きていればそういうことは起こるので(起こしていかないと自分が困っちゃうので)、あえて言う必要もないという感覚。これらを言うと、雰囲気からゆるさが急速に失われると怖れている。ゆるさを言い換えれば、自由な空気、気持ちよく息が吸える環境。ということなので、これからも僕は「成長」とか「克服」とかあえて言うことはないだろうと思っている。

念のために付け加えておくと、そういう言葉が必要とされる場にいる方もいるのではと思っている。自分がそうではないというだけで。だから、ここでいいたかったのは、「そういう言葉は窮屈だから使用は控えめにしよう」という主張ではない。ただ、自分の嗜好という意味で言ってみたかった。

めずらしく早朝に起きて散歩した。泊まり先の近くに川が流れていて、梅と桜の木が川沿いに植わっていた。梅は満開、桜は3分咲きくらい。寒かったので暖を取りにコンビニに入り、雑誌コーナーで立ち読みできるものを探していたらレコード特集がある雑誌を見つけた。いろんな人のレコードシステムが紹介されていた。その所有者とシステムのある部屋の写真がのってて、どれもかっこよく、写真的価値ありとみて買った。で、見てたら自分もレコードが聞いてみたくなってしまった。その日の夜、Amazonでポチってしまい今に至る。ポータブルプレーヤーとビニール盤一枚。レコードというものを触ったことがない。未知のものにであうワクワク感がある。アナログ盤の音は聴いていて疲れないというのは本当なんだろうか。

ほぼ家具がない部屋に住んでいるという話をまたする。家具がないんだけど、前は何があったのか?というとパッと思い出せない。今なくて、すっきりしている。もともとなくてよかったのじゃないか?という気になる。捨ててしまっても困らないということだろう。もしかしたらいつか困るのかな。モノが少ないと部屋が広くなるのはメリット。実は、部屋がすっきりしすぎるとデメリット、とはいいきれないけど、どうかな?と思うこともある。あまりにもモノがないと、目のやり場がないのだ。視線を受け止めてくれるものがない。僕の部屋にはテレビがもともとないから、これだと本当に部屋の中にはなにも見る物がなくなる。結果、所在なげに部屋にたたずむことになるだろう。それはいいことなのか。部屋から飛び出したい気持ちになりそう。あるいは、部屋にいてもおちつけない。そういうわけで、落ち着ける部屋のためには、一定量のモノがいるのではないかと思っている。

きのうおとついと雨がつづいての今日、晴れてよかった。近所を自転車でぷらぷらして、青空が気持ちよかった。ただ、風が強すぎて、寒かったが。ふつうの風景が貴重に感じられるということを経験している。何事も期限が切られた瞬間、有限性が実感せられてくるということがあるのだなという感じ。これはこれで良いと思う。永遠につづくような感覚がどことなくあって、日常のありがたさに不感症気味なところがあった。本当はありがたいことなんだけど、ありふれているばかりにそのありがたみが感じられにくくなるということはよくある。自覚できないうちにだんだんと有り難くなくなっていくのでコントロールが難しい。頭でどうこうするというのはうまくいかなくて、身体のレベルでガツンとありがたさがしみついている必要がある。それはたぶん辛い経験をすると沁みる。人生はむずかしい。

知り合いの方から桜満開情報をいただいた。今週末、枝垂れ桜が満開とのこと。来週はソメイヨシノ。春だ。

住環境の変化が気持ちにおよぼす影響について。

来週の引っ越しを控えて、ほぼすべての家具などを新居に移動させた結果、いま部屋に何もない状態で住んでいる。食器がなかったり、机がなかったり、さらには洗濯機もない。なので、食事するのに不便で洗濯もできない。また、自炊もできない。

仕方ないので毎食スーパーの惣菜、コンビニ飯、あるいは外食してしのいでいる。二日間そうしているが、もう自炊したい。とりわけ料理ずきというわけでもないが、いつも食べているものを作って食べると安心するということがある。

外食と買い食いだけだと意外にストレスを感じる。食事するのに完全に他者依存なのが気に入らないのだと思う。他人から買ってこないといけないから。材料を買ってきて、自分で調理すると、自活できている充足感があった。買ってくるしか選択肢がないと依存感があって生気がそがれる。

道具がないというのも相当に不便。コップがないのに耐えきれず、今日イオンであたらしいのを買ってしまった。コップがないとラッパ飲みするしかなく、原始的水準になる。いまはコップで飲み物を飲めるし、ヨーグルトも食べられてうれしい。そして、こういうみんなが必要なモノというのは相当安く買えるのだと実感した。100均に全部あるし、100円とはいかなくてもそれなりに安い。イオンでコップは400円、スプーンは88円で買った。ちゃんとしている。

このように制限された環境の住居に暮らしていると、ただ単にその空間で息をして生き延びているという感覚になることがある。以前家でしていたような多くのことを断念していって、つまらん感じが募るとそうなるらしい。

よって、気持ちよく生活できるように住居を整えるのは大切だというはなし。